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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。先ずそれを知らなければ、歌の解釈など始まらない。
古今和歌集 巻第六 冬歌 (332)
大和の国にまかれりける時に、雪のふりけるを見て
よめる 坂上是則
あさぼらけありあけの月と見るまでに よしのゝ里にふれる白雪
(大和の国にでかけた時に、雪が降っていたのを見て詠んだと思われる・歌……山途のくにに行った時に、白ゆきが降ったのを見て詠んだらしい・歌)さかのうへのこれのり
(ぼんやりと夜が明ける頃、大空に残る月と見るほどまでに、吉野の里に降った白雪よ……うすぼんやりする朝方、つとめて未だ残る月人壮士と見るほどに、好しのさ門に、降ったおとこ白ゆきよ)。
「あさぼらけ…朝ぼらけ…ほのぼのとした夜明け…浅ぼらけ…少しぼやっとした気はい」「ありあけの月…有り明けの月…夜が明けても空に残る月」「月…大空の月…月人壮士…つき人をとこ…おとこ」「見る…目で見る…見て思う」「見…覯…媾…まぐあい」「までに…状態の極端な事を表す…感動の意を表す」「よしのの里…吉野の里…所の名…名は戯れる。好しののさ門、好きおんな」「白雪…白ゆき…体言止めで余情がある…おとこ白ゆきよ」。
ぼんやりとした夜明け、大空に残る月が照るのかと思うほどに、吉野の里に降った白雪よ――歌の清げな姿。
貴女を・あの山ばに送り届けるべくつとめて、薄ぼんやりした明け方、残りの月人おとこは、と思えるほどに、好しのさ問に降りつもった、わが白ゆきよ――心におかしきところ。
山ば途中で、在り明けの尽きが、おとこのさがの限界のようである。
古今和歌集 巻第六 冬歌 (333)
題しらず よみ人しらず
消ぬがうへに又もふりしけ春霞 たちなばみ雪まれにこそ見め
(題知らず) (詠み人知らず・匿名で詠まれた女歌として聞く)
(消えない上にに又も頻りに降れ、春霞が立てば、み雪は稀にしか見られないでしょうから……消えないうちに、そのうえに又も頻りに、触れ・降れ、春情が済み、断ったならば、貴身のゆき、稀にしか見られないでしょうが)。
「ふりしけ…頻きりに降れ…絶え間なくふれ」「春霞…はるがすみ…春情が澄み…張るが済み」「たちなば…立ったならば…断ったならば」「み雪…御雪…見ゆき…身ゆき…貴身のおとこ白ゆき」「まれに…稀に…たまに」「見め…見るだろう」「見…覯…媾…まぐあい」。
雪よ、もっと降れと愛でて、止むを惜しみたくなる情景――歌の清げな姿。
消えない上にまたも、頻りに触れ降らしてよ、春情澄み、張るが済んだならば、貴身の白ゆき、稀にしか見られないでしょうが――心におかしきところ。
この歌が、歌合などで、是則のような男歌と合わされるとさらに、おかしさが増すだろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)