帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔百五十一〕うらやましげなる物

2011-08-23 06:05:39 | 古典

  



                    帯とけの枕草子〔百五十一〕うらやましげなる物



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔百五十一〕うらやましげなる物


 
羨ましく見えるもの、経を習うということで、たいそうたどたどしく、忘れがちなので返す返す同じところを読むのに、法師は当然、男も女も、すらすらと、たやすく読んでいるのを、そのようにいつの世になれるのだろうかと思える。

 心地など患って寝ているときに、笑ったり、笑いながらもの言い、思うこともないように歩いている人を見るのは、いみじううらやましけれ(とっても羨ましいことよ…ひどく心病むことよ)。

 稲荷(伏見稲荷)に思い起こして詣でたところ、中の御社の辺りで、むやみに苦しいのを我慢しながら上るとき、すこしも苦しそうでなく、後に来たと見える者たちが、ただ抜いて行って先に立って詣でる、いとめでたし(とっても愛でてやりたい)。二月の午の日(春の祭りの日)の暁に、いそいできたのだが、坂の半ば辺りを歩いていると、巳の時ばかり(お昼前)になってしまったのだった。しだいに暑くさえなって、とってもわびしくて、どうしてこうなの、もっとよい日もあろうものを、どうして詣でたのだろうとまで、涙も落ちて、休んでいてもひどくなるとき、四十余りの女が、壷装束などではなくて、衣をただ端折りあげたのが、「まろは七度詣してございますぞ。三度はもう詣でた、いまあと四度はなんということもない。それに未(午後二時ごろ)には下向するつもり」と、道で会った人に言って下って行ったのが、普通の所では目にもとまらないだろうに、この女の身にただ今なりたいなあと思ったのだった。

 女児でも男児でも法師になっていても、よい子供を持った人が、いみじうゝらやまし(とっても羨ましい)。

 かみいとながく、うるはしく、さがりばななどめでたき人(髪がたいそう長く麗しく、垂れ髪の端が愛でたい人・ちぢれ髪の女にはうらやましい)。
 
また、高貴な人が、だれもだれも多くの人に畏まられ、大切にされておられる、見るもいとうらやまし(見るのもとってもうらやましい)。

 書が上手で歌をよく詠んで、ものの折り毎に先ず取り上げられている、うらやましい。よき人の御前に女房おおぜい控えているときに、奥ゆかしい所へ遣わす仰せ書きなどを、誰が鳥の足跡のように書くことがあるでしょうか、だけど、下などに居る女房をわざわざ召して、御硯取り下ろして書かせられるのも、うらやましい。「そんなことは、こんな所にいる大人ならば、まことに、なにはわたりとほからぬも(難波津辺りに遠からぬも…手習い初め程度に近くとも)、事にしたがって適当に書くものを」「これはそうではなくて、上達部などの、それに初めて参上しょうとする娘などに遣わすのではありませんか。殊に心こめて紙よりはじめお飾りになられることよ」と、集まって戯れにも妬ましがって言うようである。

琴・笛などを習う。それもまた、そのようなもの未だという程度では、この師のように、何時かはと思うでしょう。

 内裏、春宮の御乳母(いずれ三位に叙せられ帝の御乳母と称される)。

帝つきの女房が、御方々へも躊躇することなく参り通っている。

 


 言の戯れと言の心

「うらやまし…羨まし…妬まし…心病まし…心病むような」「うら…裏…心」。

「なにはわたりにとほからぬ…難波津の歌の辺りに遠くない…初心者に近い…下手な」。

 


 難波津の歌は「手習う人のはじめにもしける」(古今集仮名序)とあるように、手習いの初めに習う歌。

なにはづにさくやこのはなふゆごもり いまははるべとさくやこのはな

姿は清げで、何ということもない歌に聞えるけれども、心におかしきところも深い心もあることが、おとなになればわかる。難波に都があったころ、立皇太子をご兄弟で譲り合われて三年になったので、皇子たちを、なんと、臣がお諌めした歌。

「難波津に咲くやこの花冬ごもり、今は春だと咲くやこの花……何は津に咲くでしょうか、木の花、冬ごもり、今は春だと咲くでしょうか、子のお花」。これを「そへ歌」(仮名序)という、「このままでは、この国の宮こに、おとこ花はさくのでしょうか」と、心を副え奉る歌である。


 「なには…難波…何は」「つ…津…女」「こ…木…男…子…おとこ」「このはな…此花…木の花…梅・桜…おとこ花」「春…季節の春…情の春」。

 

この歌の諌め言は、遠まわしな言い方で、心におかしきところさえ添えられてある。

  
 枕草子のこの章も、ある方が出遭われた心病むような情況についての、わが思いを遠まわしに、羨ましいことや妬ましいことを羅列して、「うら病まし」とつぶやいている。これも一つの「うそぶきわざ」。現実をそのまま記して、わが心病むなどとは書かない。

 

殿(道隆)亡き後に、心が痛み病むようなことが次々起こり、出産のために帰るべき里の家さえ焼かれたお方にお仕えした女房の、うらやみ(心病み)の記録である。このような方法でしか書くことはできない。
 

 伝授 清原のおうな

聞書 かき人知らず   (2015・9月、改定しました)


 原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。