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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。それらは、いわば、エロス(生の本能・性愛)である。
和歌は、普通の言葉では言い出し難いことを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (156)
(寛平御時后宮歌合の歌) 紀貫之
夏の夜のふすかとすればほとゝぎす なくひとこゑに明くるしのゝめ
(夏の夜のこと、臥すかとすれば、ほとゝぎす、鳴く一声に、明ける東の雲……暑い・夏の夜、寝ようとすれば、且つ乞う女、泣くひと声に、あくる、しっとりの、め)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「ふす…臥す…寝る…伏す…たおれる…立てなくなる」「ほとゝぎす…鳥…言の心は女…名および鳴き声は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「なく…鳴く…泣く」「ひとこゑ…一声…人声…女の声」「あくる…(夜が)明ける…開ける…開く」「しののめ…東雲…東の空が明るくなるとき…しっとりしため」「しの…篠…細竹などびっしり生えている感じ…しっとり」「め…目…女…おんな」。
夏の短夜、寝ようとすれば、カッコーの鳴く一声に、明ける東の空。――歌の清げな姿。
暑苦しい夜、もの伏すかとすれば、且つ乞う女のひと声に、あける、しっとりの、め。――心におかしところ。
暑い夏の夜、伏しかけるおとこ、且つ乞うおんなのありさまを詠んだ歌。「東の野に・嬪が肢ののに、かぎろひの立つ見えて」、「しののめの・しっとりしためが、偲びて寝れば夢に見えけり」などは、すでに、万葉集の歌にある同じ「絶艶」なる表現である。
「寛平御時后宮歌合」では、ほぼ同じ情況を詠んだ紀友則の歌と合わされてある。
宵の間もはかなく見ゆる夏虫に 思ひまされる身をいかにせむ
(宵の間はとくに、はかなく見える蛍火に、思い火まさる身を、どうしたものだろうか……好いの間さえも、はかなく見える、なづむ肢に・ほ垂るに、思火まさる、妻の・身をどうしたものだろうか)
「よひ…宵…夕方、明るさ残るとき…好い」「も…強調」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「夏虫…夏だけのはかない命のもの…蝿・蚊・蝉・蛍…ここでは『ほたる』と聞く…戯れて、ほ垂る、お垂れる、なづむ肢・ゆき煩うおとこ」「に…のように…により」「思ひ…悩み…思火…熱い思い」「まされる…増される…優れる…勝れる」「身…我が身…相手の身…妻の身」「いかにせむ…如何にせん…為すべき手立てに困るさま…諦め嘆くさま」。
「寛平御時后宮歌合」の詳細は、わからないが、歌人は与えられた題の歌を提出て出席しない。后の主催、内親王はじめ女房女官たちの為の、女たちによる歌合のようである。彼女たちは、皆、「歌の様」を知り、「言の心」を心得ていたので、歌は三度ゆっくり読み上げられるだけで、合わされる歌との相乗効果もあって、歌の「清げな姿」も、そのエロスの「あはれ」も「をかし」も、全てを享受することができたのである。雅楽の演奏の後、催された歌合ほどおもしろい娯楽は他にないだろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)