コロナ疎開のつもりはなかったが、
なんとしてもこの時期に田舎で
緑の萌える風景を
家族にみせたくて、旅を計画していた。
マンションの周りは緑地化されており、普通の市街地にくらべれば
まだまだ恵まれた方なのだが、
やはり慣れ親しんだ田舎の風景とはまったくちがう。
しかもマンションの中はどこまでも硬質な人造物の世界でそういう関所をいくつも通らないと出入り出来ない。
自然の溢れた地域に、時間をかけたら行けるけれど
見も知らぬ自然ではなく、記憶の中の自然に飛び込みたいのだ。
いま、田舎にいる
コロナ疎開という言葉があるらしく、それをよく思わない人がいる
と聞いた。
田舎にいる人間からしたら、都会から大挙しておしかけられたら、迷惑におもわない筈はない。自分が田舎にずっと住んでいたら、「大阪えんがちょ」と思う側だったろう。しかし、「誰かの迷惑になるから」というメンタリティーがあるからこそ、「コロナは市民が自粛しないせい」というコントロールにまんまとひっかかり、自由を奪われていることも確かな話だ。
いつから、感染症は「一人一人の行動にかかっている」ということになったのだろうか。
以前は、感染症にかからないことは自己責任であった。
今は、感染症にかかることは「社会の迷惑」であり「公害」のように思われている。マスクはそれじたいが「プラスチック製品」であり、ウィルスの三百倍と言われる穴からいくらでもウィルスが漏れている。マスクには効果がないという話はいくらでも探せば出てくるが、わかっているけど「不快に思わせたくない」という「社会的な都合」で皆 マスクをしているのだ。一方でレジ袋は有料化。そして、「コロナを避けるために、外食をしないので内食化」という流れのなか、デリバリーや惣菜を入れる容器のプラスチックゴミは増加している。
なんなんだ。
人間は馬鹿なのか?
自分の自由を、権利を主張しないで、「迷惑になるから」と言う理由で
環境をもっと破壊して、そして「自分の健康や自由な精神生活」も破壊している。
コロナウィルスが原因でなくても死んだ人が陽性ならカウントされていること
多くのデータが、超過死亡(例年よりも死亡者が多いか少ないか)がコロナの影響を受けていないこと(日本は例年よりも1万人弱すくなかった)を示している。
いったい、なにを恐れて人々はマスクをしてソーシャルディスタンスをまもり、自由を失い、経済を失い、困窮しているのか。
昨年有名になったエクモは日本国内に2000台もあるそうだが、第三波の時に稼働していたのはたった60台だったという。
WHOが新型インフルの時も煽りに煽って、ワクチンを大量につくり、結局各国で余った、そして、ワクチン利権のためにやったのか、という疑惑も新聞記事になっていたのに誰もそれについて語ろうとしない。
WHOが印籠みたいになって「これが一番正しい」「もとWHOなら信じなければ」という。。。
もっと自分を信じて、自分のために行動して
自由な精神で、健全に生きることを
選択することが どうして出来ないのだろう。
このままなにも出来ずに、
ただ我慢しながら生き続けるつもりなんだろうか。