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いずれも、『本因坊薫和選集』より引用。
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岩本薫が、アメリカやヨーロッパでの囲碁普及に力を入れる様になった経緯などについて。
ポイント1……外務省からの援助による派遣、目的は国際親善。(昭和12年以降)
ポイント2……日本国内の社会事情
明治から昭和にかけては、日本国内での囲碁の社会的地位は低かった。同時期は、東南アジア、北米、南米へ移住する日本人も多くいた。
『本因坊薫和選集』によれば、
「大正十五年の頃には、囲碁棋士を辞め、日本国外へ移住する願望が強くなっていた」
と回想している。
ポイント3……欧州および欧米でのニーズ
昭和5年。フリッツ・デュパール、ドイツより来日。
昭和11年。フリッツ・デュパールと鳩山一郎の日独電報碁が行われる。
欧州の人達からの囲碁への要望が高まっていた。
ポイント4……大倉喜七郎の強い意向
喜七郎は外国に囲碁を普及させる意欲が強く、
「日本棋院が動かなければ自分個人の国際普及をする」
と決意。
喜七郎は、岩本以外の棋士の海外派遣にも支援していた。(P299)
ポイント5……昭和34年、アメリカにて。
アメリカ人の囲碁ファンより「日本の優れた文化を世界中に広めよ」と言う箴言あり。
岩本薫が海外訪問した昭和30年代頃には、
「囲碁に関心ある人が、欧州、北米、南米に増えていた。
その人たちが、日本からの棋士派遣を金銭面からも支援していた」
「その事情を理解していた大倉組の大倉喜七郎が、海外派遣の為の支援を行っていた」
特にこの2点、
「囲碁に関心ある人が増えていたと言う、海外での需要拡大」
「大倉喜七郎などによる海外での囲碁活動への支援、すなわち金銭的バックアップ」
が、海外での囲碁普及を加速させた。
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A≫本因坊薫和選集のまえがきより
(日本棋院の)創立に援助を惜しまなかった大倉喜七郎さんは、国際的な視野と先見の明により、ことあるごとに「碁というすばらしいゲームを世界に普及してゆかねばならぬ」と語っておられ、同席するたびに大いに啓発された。幼い頃、朝鮮に渡ったことのある私にはまた、海外への憧憬と雄飛の宿願があった。
昭和四年、六段二十七才の私がいったん碁界から去ってブラジルへ向かったのは、一般に評価の低かった棋士をやめ、いわゆる一旗揚げる意図ではあったが、大倉さんの海外志向と一脈通じるものがあったようだ。幸か不幸かブラジル定住は水泡に帰し、棋士生活にも十年の空白を生じた。
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B≫欧州への最初の棋士派遣
【引用】本因坊薫和選集(P264)
昭和5(1937)年
……フリッツ・デュパール。囲碁留学の為、ドイツより来日。滞在期間は約1年間。
昭和12年10月
……囲碁棋士の福田正義五段、ドイツへ派遣。目的は囲碁普及および日独親善。囲碁棋士の派遣は、これが初めて。
派遣の資金は、大倉喜七郎からの補助と、外務省からの援助。
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C≫大倉喜七郎の強い意向
および現地からの要望
【引用】本因坊薫和選集より
喜七郎は外国に囲碁を普及させる意欲が強く、
「日本棋院が動かなければ自分個人の国際普及をする」
「全財産をなげうってでも国際囲碁連盟を作る」
と決意。(P299)
しかし大倉喜七郎の死去により、この時は国際囲碁連盟は陽の目を見なかった。(P304~305)
国際囲碁連盟の発足は、昭和57年。(年表より)
【引用】本因坊薫和選集(P297)より
アメリカやヨーロッパでの囲碁普及の動機について。
昭和34年頃の回想より。
1回目のアメリカ行きで、私は改めて「碁を世界のものにしなければならない」と決心した。終戦後10年あまり、まだ敗戦の気分から完全に抜けきったとはいえぬ時代。文化も娯楽もアメリカ一辺倒の時代だ。この旅行中、私は1人の碁の好きなアメリカ人にいわれた。
「日本は戦争に負けたとはいえ、独自の優れた文化を持っている。決して肩身の狭い思いをすることはない。ことに碁という、こんな優れた文化を持っているのではないか。これをなぜ積極的に、アメリカやヨーロッパ、いや、世界中に広めめようとしないのか」
この言葉を日本人からではなく、アメリカ人から聞いて心を打たれた。心のなかで、「ごもっとも、じゃあ私がやります」と感動した。この感動が、2年後に約2年間、アメリカに普及のために滞在する原動力となったのだ。
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D≫岩本薫の、アメリカ滞在時の収入
昭和36年当時の為替相場は、1ドル360円。
当時の大学卒業者の月収が300~400ドル。
※ニューヨーク、サイマルテニアスにて(P300)
ニューヨーク在留時の岩本薫の家賃は、2LDKで70ドル。電気代込みで100ドル未満。
黒人街に近いため、家賃は安かった。
当時のニューヨークの家賃相場は、150~300ドル。
10~15面打ちの指導碁。
謝礼は1局につき、ニューヨークでは5ドル、サイマルテニアスでは2ドル。
サイマルテニアスで行っていた岩本薫の収入。
8月が455ドル。
9月が658ドル。
10月が621ドル。
サイマルテニアスから他地方へ出張した際の収入(P302)
1日あたりの収入は30ドル(約1万円)
交通費や宿泊費はむこう持ち。
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Eに関しては、囲碁普及には直接影響していないみたいです。
E≫ブラジル移住から帰国まで
昭和4~6年のブラジル移住時は、囲碁活動は無し。
【引用】(P256)
ブラジル移民への参加理由について
なぜブラジルにしたかといえば、近い所では容易に碁界へ戻りそうな気がしたからである。移民するには碁を捨てる決心をしなければ駄目だと思っていた。
(中略)
いま考えてみると、私は秀哉名人に最初三子で打ってもらって勝ち、二子で勝ち、先番でも勝っている。段の方も六段まで、わりと苦労せず上がってきた。そのため、碁を安易に見る気持ちが根底にあった様だ。お客さんの機嫌をとるのも嫌だったし、若さから「男子一生、こんな事をしていて良いのか」という反骨も潜んでいた。
日本棋院のできる前、明治から昭和の初期まで、碁の社会的地位はずいぶん低かった。私が島根県に帰って、お客さんと旅館の二階で碁を打っていたとき、巡査が来て「なにをしているんだ」という。「碁を打っている」と答えると、「そんな道楽をしているより、なにかまともな仕事でもしたらどうだ。まともな身体をしているのだから」と注意されたことがある。親切心でいってくれたのだ。そのくらいに碁そのものが認識されており、社会的地位が低かったのである。
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昭和4(1929)年5月11日~昭和6(1931)年3月19日。
この期間は農園経営の為にブラジルに渡り農園活動に従事していた為、囲碁に関する活動はなし。
【参考】本因坊薫和選集(P255~)
昭和2年~昭和3年頃
……ブラジルへ行く為、ポルトガル語の夜学に通う。同時期、「植民同士会」でブラジルの歴史・地理等を学ぶ。
昭和4(1929)年4月19日
……東京会館で送別会。
昭和4年4月28日~29日
……神奈川県湯河原・敷島旅館で送別会。
昭和4年5月11日
……「サントス号」で神戸より出航。
昭和4年6月27日
……リオデジャネイロ入港。6月27日、サントス着。
※参考(P257)
(サントス号の船内にて)はしかが流行。子どもが10人、年寄りが1人死んでいる。
昭和(19)年7月23日
……アミューマスの農園にて、農業の労働修業。
昭和4年12月18日
……バセドー氏病の為、サンパウロで治療。
昭和5年3月
……アミーバ赤痢に感染。すぐに治る。
昭和5年10月
……ジェツリオ・バルカスの革命。
昭和5年11月7日
……姉淑子、死去。
昭和6年1月6日
……姉淑子の訃報。
昭和6年3月16日
……横浜港着。
数日後、山口県の生家へ向かう。
昭和6年4月7日
……東京都鎌田の借家へ引っ越し。
昭和6年5月22日
……大連に向けて出発。
昭和6年6月14日
……日本棋院大連支部発足式。
※大連に到着すると、長男拓一の訃報。
昭和6年6月28日
……長男拓一の葬儀。
昭和6年7月16日
……長女保子の誕生。
長女保子の誕生からは、国内での棋士活動に専念。
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