女流立葵杯の街から

囲碁の女流棋戦の中継予定を中心に投稿しています。

岩本薫先生⑥ 平成7(1995)年時の願望

2022年01月21日 | 日本の伝統文化、復権の経緯。

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【引用】本因坊薫和選集(P340)


 平成7年時の日本国内の囲碁状況


◎囲碁の社会的地位の向上
……坂田栄男名誉本因坊が文化功労者に。
……さまざまな方面からさまざまなな人が、囲碁の文化的側面の研究が成果をあげている。

◎ビデオ講座やパソコン対局の利用者の増加。

◎若い人があまり碁を打たなくなったというが、熟年世代のファンが増加。

◎女性ファンが急増している様だ。

 

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 岩本薫の願望(平成7年時点)


A≫海外普及
 入れ物を作っただけでは不十分だから、私のお手伝い出来る仕事もあるだろう。


B≫女性ファンが急増しているらしい
 財団法人も設立されたペア碁を中心に考えていきたい。

 

C≫慰問活動
 「福祉囲碁協会」のボランティア棋士を指導。
※「福祉囲碁協会」は、家で寝ている碁の好きな人を慰問して歩こうと言う趣旨の会。

 

【参照】

 2012年秋。福島県飯坂温泉にて、日本棋院主催の東日本大震災復興支援イベントが行われる。
 そのイベントの懇親会に参加された福島県在住の女性囲碁ファン数人から、次の様なコメントが発せられた。

「主人が定年退職した頃、お前も囲碁をやってみないか?……と誘われた。
 これまでには囲碁をやった事は無かったが、主人の定年退職を期に囲碁を勉強してみる事にした。
 囲碁を勉強する際、女性向けの囲碁サークルを紹介されたので、そちらに入会する事にした」

 そんなコメントをされた女性は、昭和20年以前の生まれ。囲碁をされている旦那さんが定年退職されたのが平成7(1995)年前後と言う事から、

「平成7年頃には、女性ファンが急増している」

 と言う岩本薫の証言とも一致している。

 

 

 

 

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岩本薫先生⑤(海外での諸記録)

2022年01月21日 | 日本の伝統文化、復権の経緯。

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 いずれも、『本因坊薫和選集』より引用。

 


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 岩本薫が、アメリカやヨーロッパでの囲碁普及に力を入れる様になった経緯などについて。


ポイント1……外務省からの援助による派遣、目的は国際親善。(昭和12年以降)

 

ポイント2……日本国内の社会事情

 明治から昭和にかけては、日本国内での囲碁の社会的地位は低かった。同時期は、東南アジア、北米、南米へ移住する日本人も多くいた。
 『本因坊薫和選集』によれば、
「大正十五年の頃には、囲碁棋士を辞め、日本国外へ移住する願望が強くなっていた」
 と回想している。

 

ポイント3……欧州および欧米でのニーズ
 昭和5年。フリッツ・デュパール、ドイツより来日。
 昭和11年。フリッツ・デュパールと鳩山一郎の日独電報碁が行われる。
 欧州の人達からの囲碁への要望が高まっていた。

 

ポイント4……大倉喜七郎の強い意向
 喜七郎は外国に囲碁を普及させる意欲が強く、
「日本棋院が動かなければ自分個人の国際普及をする」
 と決意。
 喜七郎は、岩本以外の棋士の海外派遣にも支援していた。(P299)

 

ポイント5……昭和34年、アメリカにて。
 アメリカ人の囲碁ファンより「日本の優れた文化を世界中に広めよ」と言う箴言あり。

 

 岩本薫が海外訪問した昭和30年代頃には、

「囲碁に関心ある人が、欧州、北米、南米に増えていた。
 その人たちが、日本からの棋士派遣を金銭面からも支援していた」
「その事情を理解していた大倉組の大倉喜七郎が、海外派遣の為の支援を行っていた」

 特にこの2点、

「囲碁に関心ある人が増えていたと言う、海外での需要拡大」
「大倉喜七郎などによる海外での囲碁活動への支援、すなわち金銭的バックアップ」

 が、海外での囲碁普及を加速させた。

 

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A≫本因坊薫和選集のまえがきより

 (日本棋院の)創立に援助を惜しまなかった大倉喜七郎さんは、国際的な視野と先見の明により、ことあるごとに「碁というすばらしいゲームを世界に普及してゆかねばならぬ」と語っておられ、同席するたびに大いに啓発された。幼い頃、朝鮮に渡ったことのある私にはまた、海外への憧憬と雄飛の宿願があった。


 昭和四年、六段二十七才の私がいったん碁界から去ってブラジルへ向かったのは、一般に評価の低かった棋士をやめ、いわゆる一旗揚げる意図ではあったが、大倉さんの海外志向と一脈通じるものがあったようだ。幸か不幸かブラジル定住は水泡に帰し、棋士生活にも十年の空白を生じた。

 

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B≫欧州への最初の棋士派遣


【引用】本因坊薫和選集(P264)


昭和5(1937)年
……フリッツ・デュパール。囲碁留学の為、ドイツより来日。滞在期間は約1年間。

昭和12年10月
……囲碁棋士の福田正義五段、ドイツへ派遣。目的は囲碁普及および日独親善。囲碁棋士の派遣は、これが初めて。

 派遣の資金は、大倉喜七郎からの補助と、外務省からの援助。

 

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C≫大倉喜七郎の強い意向
  および現地からの要望

【引用】本因坊薫和選集より

 喜七郎は外国に囲碁を普及させる意欲が強く、

「日本棋院が動かなければ自分個人の国際普及をする」
「全財産をなげうってでも国際囲碁連盟を作る」
 と決意。(P299)

 しかし大倉喜七郎の死去により、この時は国際囲碁連盟は陽の目を見なかった。(P304~305)
 国際囲碁連盟の発足は、昭和57年。(年表より)


【引用】本因坊薫和選集(P297)より

 アメリカやヨーロッパでの囲碁普及の動機について。
 昭和34年頃の回想より。

 1回目のアメリカ行きで、私は改めて「碁を世界のものにしなければならない」と決心した。終戦後10年あまり、まだ敗戦の気分から完全に抜けきったとはいえぬ時代。文化も娯楽もアメリカ一辺倒の時代だ。この旅行中、私は1人の碁の好きなアメリカ人にいわれた。

「日本は戦争に負けたとはいえ、独自の優れた文化を持っている。決して肩身の狭い思いをすることはない。ことに碁という、こんな優れた文化を持っているのではないか。これをなぜ積極的に、アメリカやヨーロッパ、いや、世界中に広めめようとしないのか」

 この言葉を日本人からではなく、アメリカ人から聞いて心を打たれた。心のなかで、「ごもっとも、じゃあ私がやります」と感動した。この感動が、2年後に約2年間、アメリカに普及のために滞在する原動力となったのだ。

 

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D≫岩本薫の、アメリカ滞在時の収入


 昭和36年当時の為替相場は、1ドル360円。
 当時の大学卒業者の月収が300~400ドル。


※ニューヨーク、サイマルテニアスにて(P300)


 ニューヨーク在留時の岩本薫の家賃は、2LDKで70ドル。電気代込みで100ドル未満。
 黒人街に近いため、家賃は安かった。


 当時のニューヨークの家賃相場は、150~300ドル。

 10~15面打ちの指導碁。
 謝礼は1局につき、ニューヨークでは5ドル、サイマルテニアスでは2ドル。

 サイマルテニアスで行っていた岩本薫の収入。
 8月が455ドル。
 9月が658ドル。
 10月が621ドル。


 サイマルテニアスから他地方へ出張した際の収入(P302)

 1日あたりの収入は30ドル(約1万円)
 交通費や宿泊費はむこう持ち。

 

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 Eに関しては、囲碁普及には直接影響していないみたいです。

 

E≫ブラジル移住から帰国まで

 昭和4~6年のブラジル移住時は、囲碁活動は無し。


【引用】(P256)
 ブラジル移民への参加理由について

 なぜブラジルにしたかといえば、近い所では容易に碁界へ戻りそうな気がしたからである。移民するには碁を捨てる決心をしなければ駄目だと思っていた。

(中略)

 いま考えてみると、私は秀哉名人に最初三子で打ってもらって勝ち、二子で勝ち、先番でも勝っている。段の方も六段まで、わりと苦労せず上がってきた。そのため、碁を安易に見る気持ちが根底にあった様だ。お客さんの機嫌をとるのも嫌だったし、若さから「男子一生、こんな事をしていて良いのか」という反骨も潜んでいた。

 日本棋院のできる前、明治から昭和の初期まで、碁の社会的地位はずいぶん低かった。私が島根県に帰って、お客さんと旅館の二階で碁を打っていたとき、巡査が来て「なにをしているんだ」という。「碁を打っている」と答えると、「そんな道楽をしているより、なにかまともな仕事でもしたらどうだ。まともな身体をしているのだから」と注意されたことがある。親切心でいってくれたのだ。そのくらいに碁そのものが認識されており、社会的地位が低かったのである。


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 昭和4(1929)年5月11日~昭和6(1931)年3月19日。
 この期間は農園経営の為にブラジルに渡り農園活動に従事していた為、囲碁に関する活動はなし。

 

【参考】本因坊薫和選集(P255~)


昭和2年~昭和3年頃
……ブラジルへ行く為、ポルトガル語の夜学に通う。同時期、「植民同士会」でブラジルの歴史・地理等を学ぶ。


昭和4(1929)年4月19日
……東京会館で送別会。

昭和4年4月28日~29日
……神奈川県湯河原・敷島旅館で送別会。


昭和4年5月11日
……「サントス号」で神戸より出航。


昭和4年6月27日
……リオデジャネイロ入港。6月27日、サントス着。

※参考(P257)
 (サントス号の船内にて)はしかが流行。子どもが10人、年寄りが1人死んでいる。


昭和(19)年7月23日
……アミューマスの農園にて、農業の労働修業。


昭和4年12月18日
……バセドー氏病の為、サンパウロで治療。


昭和5年3月
……アミーバ赤痢に感染。すぐに治る。


昭和5年10月
……ジェツリオ・バルカスの革命。


昭和5年11月7日
……姉淑子、死去。


昭和6年1月6日
……姉淑子の訃報。


昭和6年3月16日
……横浜港着。
 数日後、山口県の生家へ向かう。


昭和6年4月7日
……東京都鎌田の借家へ引っ越し。


昭和6年5月22日
……大連に向けて出発。


昭和6年6月14日
……日本棋院大連支部発足式。
※大連に到着すると、長男拓一の訃報。


昭和6年6月28日
……長男拓一の葬儀。


昭和6年7月16日
……長女保子の誕生。


 長女保子の誕生からは、国内での棋士活動に専念。

 

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岩本薫先生① 中国大陸と山陰地方

2022年01月18日 | 日本の伝統文化、復権の経緯。

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 岩本薫先生①(中国大陸と山陰地方)

 

【出典】『本因坊薫和選集』より

 


【明治35】(P242)
 岩本薫、島根県高津町(現・益田市)に生まれる。


【明治38】(P242)
 朝鮮半島の釜山に移住。


【明治44】
 父に囲碁を教わる。


【明治45】
 釜山の碁席にて、セミプロの羽広清太郎から指導を受ける。


【大正2】(P243)
 高部道平、中村善一郎の指導を受ける。


【大正3】
 広瀬平治郎に弟子入り。麹町小学校に編入。


【大正6/11】(P244)
 岩本薫、初段になる。


【大正7/9】(P244~)
 北京と上海へ。
 目的は、中国での囲碁指導に招かれていた師匠(広瀬平治郎)の手伝いの為。


【大正15/7~】(P254)
 中国を訪問。
 青島、北京、大連、奉天、京城、釜山など。
 この時、北京で呉清源に会い対局。


【昭和48/8~】(P321)
 山陰地方(松江、出雲、山口)を訪問。
 囲碁を中学や高校の課外授業にして貰う為、学校の先生方に囲碁指導。
 山陰での指導の際には、政府予算が出た。


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岩本薫先生② 関東大震災と太平洋戦争時

2022年01月18日 | 日本の伝統文化、復権の経緯。

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 岩本薫先生(関東大震災と太平洋戦争)

【出典】『本因坊薫和選集』より

 

【大正12/09/01】(P248)
 午前11時58分、関東大震災発生。
 復興資金集めの為、新潟、大阪、姫路、神戸、岡山、台湾などを訪問。
 この時、(東京海上火災の社長)各務謙吉が、遠征費100円を出資。


※(P250)
「本因坊、方円社、裨聖会が一丸になって、復興に努力するならば、全面的に援助する」
 と、大倉組の大倉喜七郎から約束される。
→→これを期に3団体が合流し、日本棋院が発足。


※ (P251)
 『本因坊薫和選集』に、日本棋院の事業10項目が掲載。

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【昭和7/5/15】(P262)
 五一五事件、発生。
 囲碁界に縁が深い犬養毅首相が、陸・海軍の将校に射殺される。


 日本棋院では10月23日に、芝紅葉館にて追悼碁会を開催。


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 棋道報国会としての活動。


【昭和16/3】(P267)
 大日本産業報国会の坂本勝、日本棋院を訪問。
「碁と将棋で棋道報国会を結成し、各地の産業戦士の慰問に出てはどうか」
 と言う依頼。
 同年9月、棋道報国会の結成式。


【昭和17/1】(P268)
 棋道報国会、牛込若松町の陸軍病院を慰問。


【昭和18/1】(P269)
 棋道報国会、北海道を慰問。


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 第三期本因坊戦、挑戦手合の概要。
 広島への原爆投下時、岩本薫先生は本因坊戦の挑戦手合を広島県にて。


【昭和20/7/24~26】(P274~)
 第三期本因坊戦第一局。
 会場は広島県広島市材木町、藤井順一宅。藤井は日本棋院広島支部長。


【昭和20/08/4~6】
 第三期本因坊戦第ニ局。
 会場は広島県広島市五日市吉見園の津脇勘一宅。中国石炭の寮。


【昭和20/11/10~12】
 第三期本因坊戦第三局。
 会場は千葉県野田市、茂木房五郎宅。
※茂木は野田醤油(現・キッコーマン)の社長。


【昭和20/11/15~17】
 第三期本因坊戦第四局。
 会場は千葉県野田市、茂木房五郎宅。


【昭和20/11/19~20】
 第三期本因坊戦第五局。
 会場は東京都目黒、橋元文治宅。


【昭和20/11/23~24】
 第三期本因坊戦第六局。
 会場は東京都目黒、橋元文治宅。


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岩本薫先生③ 5回におよぶ海外訪問

2022年01月18日 | 日本の伝統文化、復権の経緯。

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 岩本薫先生③(5回におよぶ海外訪問)

【出典】『本因坊薫和選集』より

 


◇第1次海外歴訪◇

【昭和34】(P296~)
 4月から渡米。
 シアトル、ポートランド、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、デンバー、サンフランシスコ等を訪問。

※旅費はアメリカ囲碁協会が負担。

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◇第2次海外歴訪◇


【昭和36/6/15】
(P294)(P299)(P394)

 行程はハワイ、ロサンゼルス、ニューヨーク。
 ニューヨークには1年滞在。


【昭和37/5】(P302)
 シカゴ、サンフランシスコ、ヒューストン等を訪問。

【昭和37/7/23】
 リスボン着。マドリード、ヴェニス、ミュンヘン、ウィーン、リュブリアナ等を訪問。

【昭和37/10】(P304)
 10月4日、帰国。
 10月5日、朝日新聞に欧米碁会の視察を説明報告。


※資金捻出

①群馬県水上の別荘を、450万円で日興證券に売却。

②朝日新聞の支援金。
 帰国した翌日(昭和37年10月5日)に、朝日新聞に欧米碁会の視察を説明報告。(P304)

③大倉喜七郎からの資金援助(P299)
→→「ホテルオークラが完成したらわ国際囲碁連盟を作る」と意思表示していたが、ホテルオークラ完成直後に死去。

④アメリカでの収入は、現地での囲碁指導など。
 12月には、約1400ドルの預金(P302)

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【昭和38/2/3 】(P305)
 大倉喜七郎、没。

【昭和38/12/2】(P307)
 ホテル・オークラにて、大倉喜七郎の胸像除幕式が開催。
「除幕式の券の売上の剰余金が、大倉賞の主な財源に」

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◇第3次海外歴訪◇


【昭和45】(P314)
 大阪府にて万国博覧会が開催。
 万国博覧会の開催者(井上五郎)からの要請にて、同6月に、『囲碁の祭展』が行われた。

【昭和45/8/7】(P315)
 ベルリン、ハノーバー、デュッセルドルフ、フランクフルト、ミュンヘン、ザクレブ、リュブリアナ、ウィーンを訪問。

【昭和45/9/】(P)
 サンパウロ、ブエノアイリス等を訪問。

【昭和45/10/21】
 帰国。

※資金捻出
 万国博覧会の剰余金を、囲碁の海外普及に使用。
 日本棋院からの正式派遣。一人旅。

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◇第4次海外歴訪◇

※資金捻出
 旅費は万国博の剰余金からの補助金。

【昭和47/7/23】(P318)

 羽田より出国。

 アムステルダム、エンスケデ、ロンドン、パリ、フランクフルト、マインフ、ケルン、デュッセルドルフ、ハーノバー、ベルリン、ミュンヘン、ウィーン、リュブリアナ等を訪問。

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◇第5次海外歴訪◇

【昭和50/7】(P331~)

 ロサンゼルス、メキシコ、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、ブラジル、ニューヨークを訪問。

※資金捻出
 国際交流基金からの派遣。
 各地の大学へ行って初心者に碁を教える。


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