地元の祭りなのに”旅”のカテゴリーに入れるのはどうかと思いますが・・・祭りを介してはるか昔に思いを馳せる旅とでもいいましょうか。歴史の勉強をサボっていたので、改めて眺めてみるのもいい機会かと・・・
飛鳥時代からおおよそ600年後、日本最大の危機がやってきます・・・
李氏朝鮮は、高麗の武将である李成桂が1388年に明に対抗すべく出兵を命じられたところ、クーデターを起こし政権を建てたものだそうです。そして明、清の冊封体制の下にいたわけです。
その高麗もまた新羅の武将である王建が王族を倒し建てたものです。 中国の唐が廃れ宗の時代になると、国境を接しなくなり影響は小さくなったようです。 しかし後半になるとモンゴル帝国が勃興して、元の支配を受けるようになります。 そのとき起こったのが、中世日本最大の危機、『元寇 』 です。
元は日本に対し冊封体制に組入れるべく使者を出します。しかし仲介した高麗の策略か、日本の対応がマズかったせいか、元を怒らせてしまうわけです。 なお、元寇の直前に高麗内で「三別抄の乱」という内乱があり、反政府勢力が日本に救援を要求しているので、日本側としても混乱していたようです。
こうして対馬、壱岐を攻めたあと、九州へと攻めてくるのですが・・・
子供の頃に習ったのは 「二度とも台風が来て蒙古をやっつけた、目出度し目出度し・・・」と記憶しています。
しかし実態としては熾烈な戦いがあったようです。 特に一回目の文永の役では台風は来ておらず、自力で追い返したようです。二回目は台風が来たようですが、戦闘による勝利といった方がよさそうです。 そもそも地の利は日本側にあるし、戦力も騎乗から矢を射られるわけで、元が大軍だったとしても、日本の方が有利だったのだと思います。
ところで、弓道の写真を撮っていて思ったのが、弓の長さが半端じゃないってことです。中国の弓をネットで見ると随分と小さくて玩具のように思えるほどです。それで元寇との戦いを描いたものを見ると騎乗の武士が持つ弓は、元軍の持つ弓の1.5倍の長さです。 弓が長いということは矢の長さが同じ場合、弦を引いたときの曲げ量が小さくなるので、その分へたりにくいだろうし精度も高かったと思われます。当然、射程距離を大きくすることも出来るというもので、これは大きかったはずです。
こういう開発力が勝利の要因だったのかもです。
それに元軍とは違った格好良さ、このデザイン力もいいじゃないですか。
NHKで「平清盛」やってますが、元寇は清盛逝去(1181年) の後90年ほど経った鎌倉幕府の時代ですね。