熊本市を通り過ぎて国道3号線から387号線に入り菊池を目指しました
途中に「孔子公園」がありました。
地元のご婦人の話では、何でも地形が中国の山東省と似ているそうで
市長の発案で20億円以上かけて公園が作られたそうです
中国から職人を呼んで作ったそうですが建物の朱色は牛の血が使われたとか・・
「こんなもの作って一体なんでしょねぇ~?」と不満顔・・・
確かに何を訴えているか・・他県人の私にはわかりませんが
恐らく中国からの観光客を呼び込むためではないかと予想は出来ます。
ここからさらに北上・・「鞠智(きくち)城」跡のある温故創世館に向かいました
7世紀後半(約1350年前)にヤマト政権によって築城された古城です。
「現在の鞠智(きくち)城跡
八角型鼓楼・・・日本書紀にも、百済の亡命貴族が築城を
指導したことが記されています
この「鞠智(きくち)城」は、防衛施設と同時に
兵站基地(補給)でもあったと考えられています
金製品などの出土品も展示してありました
途中で YOU Meマートで食料品を調達・・山鹿市に向かいます
山鹿燈篭民芸館
山鹿と言えば燈篭を頭に乗せた女性が優雅に踊る山鹿祭りが有名です
伝統工芸の冠はすべて”紙”で出来ていますが、この写真の建物も紙です。
頭にのせて試すことはできますが軽く丈夫です
ポストの上部にも燈篭が・・
マンホールの蓋にも燈篭が・・・
異国を思わせる石門が目印の旧山鹿町で最も古いお寺護國山金剛乗寺は、
天長年間(824~834)に空海によって開かれ、かつては西の高野山と云われました。
一時は途絶えましたが後鳥羽天皇の勅願で再建。
宥明法印住職は、文明5年(1473)3月温泉が突然枯れてしまったとき、
薬師堂を建て祈願をして温泉を復活させた山鹿温泉の大恩人と云われています。
その後、宥明法印が遷化したとき、
紙細工の名人・山口兵衛が数百の紙灯籠を作り、霊前に供えたのが山鹿灯籠の起こりとも言われています。
この石門は、文化元年(1804)に石工・甚吉によって造られたもので、
凝灰岩の切石を使った円形の門です。昭和50年2月、市の別文化財に指定されました。
次に八千代座に向かいました
明治43年(1910)に建設された芝居小屋・八千代座。
「チ」が8つ・・真ん中に「ヨ」・・昔の人のゼザインセンスに脱帽!!
八千代座は開業以来様々な興行を行い、山鹿に賑わいをもたらしましたが、
昭和には映画館になり、テレビの普及により客足が減り閉館となりました。
人がいなくなった小屋は荒れ果て、屋根には穴が・・・
不要といわれた八千代座を救うために立ち上がったのが、
老人たちと若者たちでした。
彼らは30年を超える復興活動を実施。
八千代座の国の重要文化財指定を受けて実施された「平成の大修理」を経て、
平成13年から現代の芝居小屋として活き続けています(文:一部HPより)
次に名湯、山鹿温泉「さくら湯」に入浴・入口は、国道側ではなく、裏にありました。
飲泉も出来るところもあって風情があります
さくら湯は寛永17年(1640年)の肥後細川藩の山鹿御茶屋にその歴史の端を発し、
明治初期の「山鹿温泉大改築」以降、
明治31年(1898年)の道後温泉の棟梁による大改修等を重ねながら、
昭和48年(1973年)に惜しまれつつ取り壊されました
その後は、山鹿温泉プラザの一部となり、
山鹿温泉の元湯として市民の生活の中で使われて来ました。
そのさくら湯が時を越え、平成24年(2012年)に
日本の伝統工法による九州最大級の木造温泉として往時の姿で再び甦りました。
殿様湯は現在は入れませんが見学は出来ます。
天井には「竜の絵」が描いてあります。
山鹿市周辺や山鹿温泉・・伝統を感じさせる素晴らしいところでした
途中に「孔子公園」がありました。
地元のご婦人の話では、何でも地形が中国の山東省と似ているそうで
市長の発案で20億円以上かけて公園が作られたそうです
中国から職人を呼んで作ったそうですが建物の朱色は牛の血が使われたとか・・
「こんなもの作って一体なんでしょねぇ~?」と不満顔・・・
確かに何を訴えているか・・他県人の私にはわかりませんが
恐らく中国からの観光客を呼び込むためではないかと予想は出来ます。
ここからさらに北上・・「鞠智(きくち)城」跡のある温故創世館に向かいました
7世紀後半(約1350年前)にヤマト政権によって築城された古城です。
「現在の鞠智(きくち)城跡
八角型鼓楼・・・日本書紀にも、百済の亡命貴族が築城を
指導したことが記されています
この「鞠智(きくち)城」は、防衛施設と同時に
兵站基地(補給)でもあったと考えられています
金製品などの出土品も展示してありました
途中で YOU Meマートで食料品を調達・・山鹿市に向かいます
山鹿燈篭民芸館
山鹿と言えば燈篭を頭に乗せた女性が優雅に踊る山鹿祭りが有名です
伝統工芸の冠はすべて”紙”で出来ていますが、この写真の建物も紙です。
頭にのせて試すことはできますが軽く丈夫です
ポストの上部にも燈篭が・・
マンホールの蓋にも燈篭が・・・
異国を思わせる石門が目印の旧山鹿町で最も古いお寺護國山金剛乗寺は、
天長年間(824~834)に空海によって開かれ、かつては西の高野山と云われました。
一時は途絶えましたが後鳥羽天皇の勅願で再建。
宥明法印住職は、文明5年(1473)3月温泉が突然枯れてしまったとき、
薬師堂を建て祈願をして温泉を復活させた山鹿温泉の大恩人と云われています。
その後、宥明法印が遷化したとき、
紙細工の名人・山口兵衛が数百の紙灯籠を作り、霊前に供えたのが山鹿灯籠の起こりとも言われています。
この石門は、文化元年(1804)に石工・甚吉によって造られたもので、
凝灰岩の切石を使った円形の門です。昭和50年2月、市の別文化財に指定されました。
次に八千代座に向かいました
明治43年(1910)に建設された芝居小屋・八千代座。
「チ」が8つ・・真ん中に「ヨ」・・昔の人のゼザインセンスに脱帽!!
八千代座は開業以来様々な興行を行い、山鹿に賑わいをもたらしましたが、
昭和には映画館になり、テレビの普及により客足が減り閉館となりました。
人がいなくなった小屋は荒れ果て、屋根には穴が・・・
不要といわれた八千代座を救うために立ち上がったのが、
老人たちと若者たちでした。
彼らは30年を超える復興活動を実施。
八千代座の国の重要文化財指定を受けて実施された「平成の大修理」を経て、
平成13年から現代の芝居小屋として活き続けています(文:一部HPより)
次に名湯、山鹿温泉「さくら湯」に入浴・入口は、国道側ではなく、裏にありました。
飲泉も出来るところもあって風情があります
さくら湯は寛永17年(1640年)の肥後細川藩の山鹿御茶屋にその歴史の端を発し、
明治初期の「山鹿温泉大改築」以降、
明治31年(1898年)の道後温泉の棟梁による大改修等を重ねながら、
昭和48年(1973年)に惜しまれつつ取り壊されました
その後は、山鹿温泉プラザの一部となり、
山鹿温泉の元湯として市民の生活の中で使われて来ました。
そのさくら湯が時を越え、平成24年(2012年)に
日本の伝統工法による九州最大級の木造温泉として往時の姿で再び甦りました。
殿様湯は現在は入れませんが見学は出来ます。
天井には「竜の絵」が描いてあります。
山鹿市周辺や山鹿温泉・・伝統を感じさせる素晴らしいところでした