日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2015-10-08 18:48:43 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(332)

4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―

年が明けて、1519年1月2日の聖日、ツヴィングリはチューリヒの中心にそびえる大聖堂の教会の説教壇に立った。それ以来12年間の彼の活動は、基本的には説教者としての務めであった。この説教壇から語られる聖書の講解説教および時宜に適った主題説教が、チューリヒにスイスに、そして他の諸国に改革派教会の、ルター派とはまた違った、伝統を生み出すことになる。ルターの場合もそうであったが、宗教改革は何よりも先ず〝説教運動〟であったといえる。いつの時代もいえることであるが時代の曲がり角では、聖書の説教が勝負どころとなる。これは今日も同じである。(ここまで前回)

ツヴィングリの説教はマタイによる福音書の連続講解説教からはじめられた。今日では想像しがたいが分らないラテン語の短い説教があっても、それをラテン語ではなく、日常語、チューリヒのドイツ語で講壇から語られる説教が、聖書そのものしかもこのように聖書を連続して取り上げ、始めて自分たちの言葉で語られて、身近なものとして耳にした聴衆の感動と興奮は、現代のわれわれには、ほとんど実感できない。このようにしてチューリヒの地域共同体にも、宗教改革派(新信仰派)とローマカトリックの(旧信仰派)という二つの信仰集団が並存することになった。中世の大前提は一つの地域には一つの思想、心情、信仰という大前提が定着していて、二つの集団はあってはならない現象である。(つづく)


聖書研究

2015-10-08 18:40:46 | 大分中央ウィークリー

創世記21章28節である。「アブラハムは更に、羊の群れの中から七匹(シェバ)の雌の小羊を別にしたので、」という。この七匹の羊が、27節の「羊と牛の群れを連れて来て、アビメレクに贈り、」といわれている。その羊の中に含まれていたのかどうかがここの問題である。なぜなら契約のしるしとして、契約以外の目的をもったもの、すなわち、「井戸を掘ったことの証拠」(30節)含めるのは、契約の儀式の重要さから考えにくい。しかし、実際はその群れの中に含めていたのであった。 

ここの言葉遣いからは、「羊の群れの中から七匹(シェバ)の雌の小羊を別にした」といわれているところは、アブラハムの手で「羊の群れの中から七匹(シェバ)の雌の小羊を別にした」という意味であって、契約にはアブラハムが自ら7匹の羊を分けることによって井戸のアブラハムに帰属の確認であったといえる。 

29節である。「アビメレクがアブラハムに尋ねた。「この七匹の雌の小羊を別にしたのは、何のためですか。」といいます。先にいったように、アブラハムの手で「羊の群れの中から七匹(シェバ)の雌の小羊を別にした」という意味でるならば、アブラハムにとって、大事な井戸であったということの意思表明となる。その意思表明のために井戸の数の七つと羊の数の七つとを合わせているようである。 

そのアブラハムの心に、肝胆相照らす仲となったのである。アビメレクが先にいったように井戸の返還をもって応えたことはいうまでもない。この「七」という数字もまた、イスラエルでは完全数であり、神聖なものであった。神にかけて心を相互に通わすという意味があります。単なる肉の人間の友情ではないのである。


牧 会 通 信

2015-10-08 00:23:46 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第11歌(カッコ内は筆子、その6)

◯だから人殺しと悪意をもつて人を傷つけるもの、破壊者と強奪者はことごとく、別別の群れをなして第一の環で苦しめられてゐる。

  人間は自身と自身の持物に対して暴力を加へることがある、だから第二の環では、自ら命を絶つたもの、

財産を博奕(ばくち)でするもの、快活であるべきところで哭き(大声をあげて泣き)悲しむものが、無益に後悔せねばならぬ。

(ここまで前回 )

◯また暴力は神に対して加へられる、心で神を否定し、罵(ののし)つて、自然に叛(そむ)き、神の真意を蔑(さげす)んで。

だからいちばん小さい環(かこい)はソドムとカオルサ(「カオルサ」とは、西フランスの南にある町の名称で、高利貸が多く住む、神の自然の恩恵(自然の賜物なる財宝)に対して暴を行う罪)のやから、心で神を侮蔑して話すものたちを、封印をして閉込めてゐる。

あらゆる良心を疼(うず)かせる、欺瞞は自身を信頼してゐるものと、信頼関係のないものに対してなされる。(つづく)

 

◯2015年10月4日は、今年の第四十主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「主の戒め」という主題であ

る。聖書は歴代誌下6章12~17節、その17節、「あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されます

ように。」ここでソロモンが祈っている。「今後も確かに」というとき、キリストにおいて実現される十字架の贖いの業

(わざ)を覚えねばならない。イエスご自身の戒めは「愛」の戒めであった。ダビデに証されて「信仰と愛」の神殿なる体を。 

◯写真は23日、大阪での全国信徒大会の閉会礼拝前、子供の集いのステージを再度掲載。詩編歌133・1の大合唱。