日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2015-10-20 22:45:21 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(332)

4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後― 

中世の大前提は一つの地域には一つの思想、心情、信仰という大前提が定着していて、二つの集団はあってはならない現象である。(ここまで前回) もちろん、宗教上の対立はその地域の政治分野での対立となって現れてくる。事実、このときのチューリヒでは、路上での実力行使にまで至った。

こうしたとげとげしい社会環境の中で起きたのが、1522年春のソーセージ事件として語り伝えられているものがある。それは、その年の3月22日は灰の水曜日であった。この日からレント(受難節)に入るので、この日からその社会では、四十日間断食に入るのが習慣化されていた。その水曜日の夕刻のその少し前からのこと、ツヴィングリの一群の支持者らがその地域の印刷所で集合して、彼らは、時が時なので、チューリヒの日常語のドイツ語訳聖書の刊行を目指して徹夜も辞さずという勢いで印刷作業を続けていたときのことである。彼らに幾人かがそれぞれ空腹を覚えたので、持参していたソーセージを口にいれた。折も折り肉および乳製品を食べることを禁じる四十日間断食の期間であった。一気に政治問題となった。ツヴィングリ自身よりも弟子たちの方が、どちらかといえば熱心であり、彼らにとっては、この期節の断食の破棄こそが、かねてからの彼らの(師ツヴィングリが解いてやまない)福音の自由の実現そのものであった。(つづく)


聖書研究

2015-10-20 22:42:16 | 大分中央ウィークリー

創世記21章30節である。「アブラハムは答えた。『わたしの手からこの七匹の雌の子羊を受け取って、わたしがこの井戸(ベエル)を掘ったことを証としてください。~』」といっている。28節以下は27節「二人は契約を結んだ」の説明文のようである。その場合、契約そのものは井戸が、アブラハムの所有であることを前提としている、またその所有を確認していることになる。 

したがってここで、「井戸(ベエル)を掘ったことを証としてください」アブラハムがいうのは、アブラハムの所有であることの確認を求めていることになる。心を相通じさせる信頼の証であって、代価として買い戻したのではない。所有者としての主権は損なわれず、永久の所有であって少なくとも将来にわたって同様の争いの再発を防いでいるのである。人間の世界の平和は、信頼関係によって保持される。 

31節である。「それで、この場所をベエル・シェバと呼ぶようになった。二人がそこで誓いを交わしたからである。」という。イスラエルの国土の南端になった町の名として、このとき、その名が誕生した。ご存知のように、一般に「ダンよりベエル・シェバまで」の表現で、北の「ダン」より南の「ベエル・シェバ」に至るイスラエル全土を現すものとして、しばしば用いられている(士20・1、サム上3・20など)。 

「シェバ」は「七」の意味を持つ。ヘブライ語は母音をつけないで表記されるので、「シャーバ」と読めば「誓い」の意味。ここでは二つの意味を兼ね備えている言葉があえて使われている。従って、ここの七匹の雌の子羊には、これらの二つの意味を込めて、ここに登場している。その上「七」は近東地域では完全数であるから、アビメレクがアブラハムの井戸の所有権を公式にかつ完全に承認したことになる。


牧 会 通 信

2015-10-20 22:13:51 | 大分中央ウィークリー

 

ダンテの「神曲 地獄」編 第11歌(カッコ内は筆子、その6) (原 光訳 2000年、沖積舎)

◯だから最小の圏、つまりディテ(神話、地獄の王、既出8・67)が上に居る。世界の中心点では、裏切るものが永遠に憔悴(しょうすい)させられてゐる。」

わたしは言つた、「師よ、あなたの議論はじつに明確で、この奈落とここを占めてゐるものたちを、実によく分類してゐますが、

どうか教へて下さい、あの泥沼でふやけてゐるもの、烈風に運ばれるもの、雨に打たれるもの、衝突して毒舌を弄するものたちは、」

(ここまで前回 )

◯なぜこの灼熱する市(まち)の中で罰せられないのですか、神の怒りを受けてゐるのなら。また受けてゐなければ、なぜあのやうにされてゐるのですか?」

  師は答へた、「そなたの知力はなぜいつもの道からそんなにも逸(そ)れてゐるのだ?そなたの心は外のどこをみつめてゐるのだ?

  思い出なさぬのか、そなたの倫理学が天に忌み嫌はれる三つの性質、放縦と悪意と狂つた獣性を詳しく論じてゐるあの言葉を?

(つづく)

◯2015年10月18日は、今年の第四十二主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「イエスは何者」という主題である。聖書はマタイ24章23~31節、その30節、「そ

のとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」と。

いわゆる主イエスの来臨である。このときを人は待望している。ゆえに、いかなる天変地異にも、恐れてはならない。

 

◯写真は9月22日、大阪での全国信徒大会の閉会礼拝(司会、高松牧人教師、鶴見教会牧師)スクリーン上に讃美歌[228番]を映し出されて、それを観て共に歌う。