五、「教会とわたしたち」(343)
4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―
チューリヒでは一五二四年の12月修道院がすべてが廃止され、翌年3月13日イースターの聖餐式をもってカトリックのミサはその町から姿を消した。しかしその形はカトリックの組織がそのままで、その内容がプロテスタントに裏返っただけであった。スイスは13の地域共同体〈邦〉であるから、全体の連邦から見れば、一部の地域で分裂が始まったにすぎない。しかし実際は1528年にベルンが、孤立無援に近いチューリヒの大きな支えとなり、1529年にバーゼルが加わり急速に仲間を加えたが、その反対の傾向も強くなった。山岳地の諸邦ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、ツーク、ルツェルンの5邦は「カトリック・キリスト教連合』を結成して対抗してきた。その緊張が、実力行使、すなわち軍事対決にまで高まったのが1529年6月の(ここまで前回)ことであった。
しかしこのようなときの人間社会は経験したことのない社会的混乱に陥るのが常である。生活と命をかけた権謀術策の渦の中に巻き込まれるのであった。特にカトリックを全面的に擁護する皇帝カール5世の母体ハプスブルク家(スイスばかりではなく、スペイン、ドイツ、ドイツ低地方、北イタリアを支配下に置く)の存在は、ツヴィングリー福音主義にとって難敵中の難敵であった。この時は仲裁が入り、古都ルツェルンに会談して一つ町に一つの宗教、人は宗教によって町を選ぶ「現状維持」形態で二つの宗教存在を認めた。戦乱に至らず(つづく)