五、「教会とわたしたち」(344)
4.近代の教会の夜明け―宗教改革とその後―
その緊張が、実力行使、すなわち軍事対決にまで高まったのが1529年6月のことであった。しかしこのようなときの人間社会
は経験したことのない社会的混乱に陥るのが常である。生活と命をかけた権謀術策の渦の中に巻き込まれるのであった。特
にカトリックを全面的に擁護する皇帝カール5世の母体ハプスブルク家(スイスばかりではなく、スペイン、ドイツ、ドイツ低地
方、北イタリアを支配下に置く)の存在は、ツヴィングリー福音主義にとって難敵中の難敵であった。この時は仲裁が入り、古
都ルツェルンに会談して一つ町に一つの宗教、人は宗教によって町を選ぶ「現状維持」形態で二つの宗教存在を認めた。
戦乱に至らず(ここまで前回) 解決した。
この現状維持決着は不安定なものになる可能性があった。なぜなら自らの信仰を守るために信仰によって町を形成するのは
良いが、そうはうまく行かない場合の移住権を認めるというものである。そのように事が進むであろうか一つの実験室であった。
町は小さくなるが依然として、一つの地域に一つの公認宗教しかないのである。新教の自由にはならない。その点から、ツウィ
ングリには、改革派の進展を押さえつける結果となり、このカッペル和議は失敗としか見えなかった。ベルンとチュリッヒの巨大
都市の圧倒的優勢なときに、ルツェルンなどのカトリックのキリスト教連合を一気に押しつぶすべき機会を失っただけであった。
(つづく)