日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-01-20 23:31:03 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(345)

4.近代の教会の夜明け  ―宗教改革とその後― 

この時は仲裁が入り、古都ルツェルンに会談して一つ町に一つの宗教、人は宗教によって町を選ぶ「現状維持」形態で二つの宗教存在を認めた。戦乱に至らず解決した。

この現状維持決着は不安定なものになる可能性があった。なぜなら自らの信仰を守るために信仰によって町を形成するのは良いが、そうはうまく行かない場合の移住権を認めるというものである。そのように事が進むであろうか一つの実験室であった。町は小さくなるが依然として、一つの地域に一つの公認宗教しかないのである。新教の自由にはならない。その点から、ツウィングリには、改革派の進展を押さえつける結果となり、このカッペル和議は失敗としか見えなかった。ベルンとチュリッヒの巨大都市の圧倒的優勢なときに、ルツェルンなどのカトリックのキリスト教連合を一気に押しつぶすべき機会を失っただけであった。(ここまで前回) 後に不幸な結果になるのであるが、ツウィングリのその状況判断は当たっていた。

こうなると、ツウィングリにはカール5世大帝を要するハプスブルク家との対決が抜き差しならない重荷となってきた。ルター派との同盟の必要から、1529年10月、聖餐論の一致を求めて当時の有数の学者たちが集まりドイツ・フランクフルトから60キロ北の小さな都市マールブルクで三日間にわたって神学討論を展開した。史上名高いマールブルック会談である。しかし、軍事同盟は不成立に(つづく)


聖書研究

2016-01-20 23:28:51 | 大分中央ウィークリー

創世記22章9節である。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。」といわれます。ここで、わたしたちの問題は「息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。」というところである。息子といえども、この年頃になると自分の身に起こる事の異常性に気がつくはずである。そのことについて、一言も触れられていないではないか。

 どうしたことかと、はたと考えさせられるところである。不思議な静寂である。神の時の遂行で、あらゆる人間的行為の沈黙であったとしか言いようがない時の流れである。子供自身も身を任す以外になかったのであった。「息子イサクを縛って」というところは、先の「小羊はきっと神が備えてくださる」とイサクの父との合意を暗黙のうちに含めている。そこに神ご自身の権威が現れているというべきであろう。 

10節である。「そしてアブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」のである。ここに「息子を屠ろうとした。」という。アブラハムにとってはいよいよそのときが来たのであった。しかし、神のお言葉の通りを実行するのに、いささかの迷いがない。その神のご命令ゆえにわが子を「屠ろうとした」。遅疑逡巡する様子がまったく見られない。その心の中の動きを神はしっかり見ておられるのであった。 

かつて少年ダビデを選ぶときに、主なる神がサムエルに言われた言葉がある。それは、「主は心によって見る」(サム上16・8)であった。ここでも主なる神はアブラハムの人間としての誠実な心をぎりぎりのところまで、じっと見ておられるのであった。


牧 会 通 信

2016-01-20 22:54:50 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第12歌(カッコ内は筆子、その8)

◯わたしの師は言つた、「返辞はそこに近づいたらキロン(チェンタロウの仲間)にする、お前のいつも厚かましい逸(はや)り心は禍の因(もと)だつたからな。」

  それから肱でわたしに触つて言つた、「あれがネッソだ、美しいデイアニラのために死に、自ら自身の復讐を果たしたあいつだ。

  自身の胸を見詰めてゐる真中のものは、アキッレを養い育てた大キロンで、もう一人はあんなにも怒りで燃え狂つてゐたフォロだ。

(ここまで前回)

◯このものたちは何千とこの堀のまはりを走つてゐて、自身の罪により規定されてゐる以上に、たぎる血から身を出す霊に矢を射かけるのだ。」

わたしらがこの迅速な獣たちに近づくと、キロンは矢を取外して、矢筈(やはず)で髪を顎の左右の後へ押しやつた。

大きな口が現れると仲間たちに言つた、「後ろの奴が触れたものが動くのに気づいたか?死者の足はいつもあのやうに動かさぬ。」(つづく)

 

◯2016年1月17日は、新年の第三主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「献げる」という主題である。ヨハネ1章35~42節、その42節、「そして、

シモンをイエスのところに連れて行った。~」という。シモンはこの時、イエスから「ケファ―(岩)~」という名をいただいた。この様にして、イエスに

身を「献げる」のであった。

 

◯写真は、年賀状。東京・柏木教会会員、画伯、小野寺玲子氏、題「冬の訪れ」606×727ミリ富山県・立山(三山)の画である。立山は台形の形であるが、写真は左(北)から、「富士の折立」(2999m),中央に「大汝山」(3015m、右端「雄山」(2991.6mの三山が連なって台形に見える。画伯は10月初め、館山に初雪が降ったころ描いたものであろう。