五、「教会とわたしたち」(345)
4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―
この時は仲裁が入り、古都ルツェルンに会談して一つ町に一つの宗教、人は宗教によって町を選ぶ「現状維持」形態で二つの宗教存在を認めた。戦乱に至らず解決した。
この現状維持決着は不安定なものになる可能性があった。なぜなら自らの信仰を守るために信仰によって町を形成するのは良いが、そうはうまく行かない場合の移住権を認めるというものである。そのように事が進むであろうか一つの実験室であった。町は小さくなるが依然として、一つの地域に一つの公認宗教しかないのである。新教の自由にはならない。その点から、ツウィングリには、改革派の進展を押さえつける結果となり、このカッペル和議は失敗としか見えなかった。ベルンとチュリッヒの巨大都市の圧倒的優勢なときに、ルツェルンなどのカトリックのキリスト教連合を一気に押しつぶすべき機会を失っただけであった。(ここまで前回) 後に不幸な結果になるのであるが、ツウィングリのその状況判断は当たっていた。
こうなると、ツウィングリにはカール5世大帝を要するハプスブルク家との対決が抜き差しならない重荷となってきた。ルター派との同盟の必要から、1529年10月、聖餐論の一致を求めて当時の有数の学者たちが集まりドイツ・フランクフルトから60キロ北の小さな都市マールブルクで三日間にわたって神学討論を展開した。史上名高いマールブルック会談である。しかし、軍事同盟は不成立に(つづく)