五、「教会とわたしたち」(361) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽として、アウグスチヌス著「神の国」から引用(その2)
それにもかかわらず、謙虚からは一種の高挙が、人間の倨傲(きょごう)の結果としてではなく、神の恵みの賜物として湧き出るのである。このような高挙は、
あらゆる地上的倨傲の尖塔よりも高く、わたしたちを引き上げるであろう。しかしてそのような土台の上に揺れ動くものは、何と安定を欠くことであろうか。
(前回ここまで、訳文28頁4行目)
わたしたちの現下の主題であるこの国(ローマ帝国)の王であり建設者であられる神は、その民ユダヤ人の書物の中にその律法の定めを明示された。そこには
こう書かれている。「神は矯(いつわ)り高ぶるものに逆らい、謙虚なものに恵みを与えられる」(詩篇114・15.但し邦訳は異なる)。これは神の言葉であるが、傲
慢な人間の思い上がったこころは、これをこじつけ、次の引用文をあたかも自分への賞賛として聞きたがる。打ちひしがれたものに思いやりを示し、おごり高ぶる
ものを打ち砕く(ヴェルギリウス『アエネアド』六・八五三)。わたしが地上の国についても語らなければならないのは、そのためである。もろもろの国は地上の国に
隷属するが、それはまさに支配欲そのものによって支配されている。わたしが取りかかった仕事は、どの一つをも省くことが許されない。十分な理由があり、能力
の許すかぎりは、すべてを言わなければならないのである。(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)