日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-05-26 12:43:51 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(363)

近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに近代への萌芽として、アウグスチヌス著「神の国」から引用(その4)

(1、ローマが略奪を蒙ったとき、~)

殉教者たちの廟(びょう)堂や使徒たちの会堂がこの事実を証しする。ローマ略奪の間、そこに避け所を求めた者には、キリスト信者たると(前回ここまで、訳

文29頁9行目) 異教徒たるとを問わず、これらの会堂は等しく門戸を開いた。残虐なる蛮族どもは荒れ狂ってこの門のところまで殺到したが、その殺意に満ちた

恐怒もそのしきいを越えて及ばなかった。蛮族の中でも慈悲心に富む者どもは、聖所の外でその命を助けた人々が、それほどは憐れみ深くない敵の手に陥るこ

とのないように、彼らをその建物に伴って来た。他の場所では殺戮や略奪をほしいままにした者たちでさえ、のちにはこれらの場所に来はじめた。そこでは、他

処では戦争の掟によって許されていることも、厳しく禁じられていたのである。その門の内側では彼らの燃えたぎる殺意は消え失せ、征服欲も抑制された。

 このようにして多くの者が生命を全うしたが、今わたしたちのキリスト教信仰を非難し、ローマ市に降りかかった禍をキリストのせいにするのは、その者たち

である。蛮族たちがキリストに対する尊崇のゆえに彼らに示した恩恵(そしてそれが事実彼らの生命を救ったのであるが)を、彼らはわたしたちのキリストに帰

せず、幸運のせいにする。もしも彼らが正義の何たるかをわきまえることができるならば、~(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-05-26 12:40:43 | 大分中央ウィークリー

創世記23章5節である。「ヘト人はアブラハムに答えた。どうか、」とあるが、翻訳としては、「どうか」というのは不必要であるが、もし、この言葉を入れるなら、6節の初めに入れる言葉であろう。要するに、ここは二つ返事といってよい。「ヘト人」というより「ヘトの子達は(ベネー ヘト)」であり、原語は複数形である。「ヘトの子達が快く答えた。」という言い方にした方が良い。口語訳は「ヘトの人々は~」となっている。 

たぶん、アブラハムの丁重な願いと、それを受けてのアブラハムのその状況への心からの彼ら全体の厚い同情をあらわして、そばに集まった全員が心を合わせてアブラハムに答えているようである。アブラハムもまた、ヘト人の集団の同意を得ようとしていたのであろう。なぜなら、個人的出来事であるが、同時に全体が共有している。このような訃報はその集団全体のものであった。果たして今日はどうか。 

6節である。「ご主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」という。これは「泣く人と共に泣く」(ロマ12:15)という人々の誠心誠意の答え方である。サラの生涯は127年という。 

アブラハムは、その父テラ70歳のときに生まれ、この彼が75歳のときに145歳の父テラを残し、意を決してハランを発った。そのとき、10歳年下65歳の妻サライと、5~6歳(推定)の少年の甥のロトとを連れていた (12:4)。辛苦を共に62年間の人生の旅路の別れ。これをいって、カナンの地、ヘブロンでの、大いなる悲しみという。


牧 会 通 信

2016-05-26 12:32:22 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第13歌(カッコ内は筆子、その12) 

◯どのやうにして霊がこの節だらけの木に縛りつけられるか、また出来れば、いつか霊がこんな五体から解き放たれることがあるのか。」

すると幹は激しく喘いで、やがてその風はこんな声に変つた、「そなたには簡単に答へよう、(ここまで前回)

◯残忍な霊が肉体から自身を引抜いて離れると、ミノス(神話のクレタの王子)によつて第七圏(第七地獄)に送られ、この森に落ちるが、

 選ばれた所ではなく、偶然によつて投げつけられた所で、霊はオート麦の粒のやうに発芽して、

若枝と伸び野蛮な潅木となる、するとアルビア(神話の牛頭身人怪物)たちがその葉を食つて苦痛を与へ、苦痛に吐け口を与へる。(つづく)

 

◯2016年5月22日は第二十一主日、三位一体祝日という。日聖協「聖書愛読こよみ」は「愛し合う交わり」という主題。聖書は使徒8章

14節以下は父と子と聖霊がそれぞれ独立した神の人格を持っているということを教える聖書の箇所である。サマリアでは、キリストの教え

を聞き、人々は洗礼を受けた。しかし、聖霊は、まだだれの上にも降っていなかった。ペトロとョハネがエルサレムから遣わされて、「聖霊を

受けるようにその人々のために祈った」。17節、「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」という。聖霊を求める祈

りが大事である。

 

◯写真は、「陥没している家屋」、阿蘇三久保町付近。日本アライアンス教団・永井一匡先生提供。