五、「教会とわたしたち」(366)
5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽として、アウグスチヌス著「神の国」から引用(その7)
(1、ローマが略奪を蒙ったとき、~) わたしたちは多くの者がいま厚顔無恥にもキリストの僕を侮辱していることを知っている。その中にはもしも彼ら自身が
キリストの僕であるかのごとく偽らなければ、大量殺戮を免れなかったであろう者も、数多く含まれている。然るに彼らは忘恩にして傲慢に満ち、狂気ごとき
不信心からのキリストの御名に抗(はりあ)い立ち、永遠の暗闇の刑罰へと陥る危険を冒している。彼らがこの世の光のいくばくかを享受せんと欲し、偽って口に
したのは外ならぬこのキリストの名であった。 2、これまでどのような戦争においても、(前回ここまで、訳文31頁1行目)
戦勝者が純粋に宗教的な理由から敗者の命を助けたことはなかった。 3、トロイ(前3世紀)を救うことのできなかった神々が、その悩みの日に何か役に立つと
考えるローマ人は愚かである。 :::わたしの計画に従って、わたしはできるだけ急いで、これら忘恩の徒(ともがら)について語ろう。彼らは彼らの悪口の当然の
報いとして受くべき災害を、不敬虔にもキリストに帰し奉ろうとするのである。彼らは異教徒であったにもかかわらず、キリストの御名は、彼らにふさわしくない安
全を容認したのである。よこしまで瀆神的な狂気の沙汰ながら、彼らは~(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)