五、「教会とわたしたち」(367) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽として、アウグスチヌス著「神の国」から引用(その8)
(:::わたしの計画に従って、わたしはできるだけ急いで、これら忘恩の徒(ともがら)について語ろう。彼らは彼らの悪口の当然の報いとして受くべき災害を、
不敬虔にもキリストに帰し奉ろうとするのである。彼らは異教徒であったにもかかわらず、キリストの御名は、彼らにふさわしくない安全を容認したのである。
よこしまで瀆神的な狂気の沙汰ながら、彼らは(前回ここまで、訳文31頁8行目)
いまやキリストの御名に逆らって鋭い舌を向けようとする。まさにその同じ舌でもって、彼らは死を免れるためにキリストの御名を偽って用いたのである。キリ
ストのために聖別された場所に避難して、キリストのゆえに安全に保護されていたときには、彼らは鳴りを潜めていた。しかるに彼らはこれらの隠れ家から身
を現わすやいなや、敵意に満ちた呪いをキリストの御名に浴びせかけるのである。
4 昔の日、トロイが略奪されたとき、ユノーの神殿はギリシャ(侵入)軍に対する避難所とならなかった。しかるに最近のローマ略奪に際しては、使徒たちの
廟堂はそこに逃げ込んだ人々を蛮族から保護する役を果たした。
5 カトー(ローマ文人)の見解によれば、占領した都市を略奪するのは、戦いの常であった。
6 ローマ人でさえも、彼ら自身を征服した町々の神殿を惜しむことはなかった。
7 ローマの略奪において現に起こった(つづく)~ (教団出版「神の国」出村彰訳1968)