五、「教会とわたしたち」(369) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後) はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その10)
気が狂っている、(前回ここまで)といわなければならない。 まともな判断力を持った者は、なにびともこれを蛮族の荒々しい気性に帰そうとはしないであろ
う。彼らの粗暴で未開なこころは、畏敬の念で圧倒されて抑制されたのである。驚くべきことには、彼らはかつて預言者を通じて次のように語られた方によっ
て、圧服されたのである。「わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、むちをもって彼らの不義を罰する。しかしわたしはわがいつくしみを彼から取り去ることはな
い」(詩編八九・三二~三三節)
8 人生の幸・不幸は良き者の上にも、悪しき者の上にも等しく降りかかる。
ある者はこう言うであろう。「あなたが言うところの神の憐れみが、不信心で忘恩の輩にも与えられるのは、何としたことであるのか」と。それが日毎に良き者
の上にも悪しき者の上にも太陽を上らせ、義しい者にも義しくない者の上にも雨を降らせる方によるのでなければ、いったい何であろうか。そのように考えて
前非を悔い、自らの所行を改める者もなくはない。しかし他の者は、使徒パウロも言うように、「神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛
と忍耐と寛容との富を軽んじ、かたくなな、悔改めのない心のゆえに神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを自分の身に積んでいるのであ
る。神はおのおの(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)