日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-07-05 02:53:41 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(369)   近代から現代へ(宗教改革とその後) はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その10)

気が狂っている、(前回ここまで)といわなければならない。 まともな判断力を持った者は、なにびともこれを蛮族の荒々しい気性に帰そうとはしないであろ

う。彼らの粗暴で未開なこころは、畏敬の念で圧倒されて抑制されたのである。驚くべきことには、彼らはかつて預言者を通じて次のように語られた方によっ

て、圧服されたのである。「わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、むちをもって彼らの不義を罰する。しかしわたしはわがいつくしみを彼から取り去ることはな

い」(詩編八九・三二~三三節)

 8 人生の幸・不幸は良き者の上にも、悪しき者の上にも等しく降りかかる。 

ある者はこう言うであろう。「あなたが言うところの神の憐れみが、不信心で忘恩の輩にも与えられるのは、何としたことであるのか」と。それが日毎に良き者

の上にも悪しき者の上にも太陽を上らせ、義しい者にも義しくない者の上にも雨を降らせる方によるのでなければ、いったい何であろうか。そのように考えて

前非を悔い、自らの所行を改める者もなくはない。しかし他の者は、使徒パウロも言うように、「神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛

と忍耐と寛容との富を軽んじ、かたくなな、悔改めのない心のゆえに神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを自分の身に積んでいるのであ

る。神はおのおの(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-07-05 02:51:20 | 大分中央ウィークリー

創世記23章11節である。「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところ

で、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください(口語訳「あなたの死人を葬りなさい。」)という。8節でも書きましたが、日本語翻訳として

「亡くなられた」は不適切である。

 

「差し上げます」は無償でではない。「売却します」の婉曲的用語であって、アブラハムが「譲っていただきたいのです」といったのと同じ意味で、ここでは快く売り

たいという意味の売買の常等語である。「売る」という代わりに、「与える」というのと同じで、買う人の心を傷つけないで済むことになる(フォン・ラート)。日本語で

も、売買が成立する状況では「差し上げます」というときがしばしばある。

 

12節である。「アブラハムは国の民の前で挨拶をし、」という。「国の民の前で」とは、7節と同じ状況である。「国の民であるヘトの人々に」挨拶したのであっ

た。そのときは「ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクベラの洞穴を譲っていただきたいのです。」とお願いした時であった。今度

は、相応の代価を払って譲っていただいたという公的なお礼という挨拶を述べるのであった。

 

「挨拶をし、」とは7節と同じ言葉であり、その言葉の直訳的意味は「ひれ伏す」である。今日でも公的な取引はこの形である。特に不動産に関してはそうであ

る。また、ある特定(指定献金のような)の、高額な資産を動かすときもまた、このような公的な、丁寧な挨拶が必要。教会の場合は大会、中会、総会を開いて

協議した結果を受けて実行するという形である。すべてを治める神に応える姿勢なのである。


聖書研究

2016-07-05 01:39:44 | 大分中央ウィークリー

創世記23章11節である。「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください(口語訳「あなたの死人を葬りなさい。」)という。8節でも書きましたが、日本語翻訳として「亡くなられた」は不適切である。

 

「差し上げます」は無償でではない。「売却します」の婉曲的用語であって、アブラハムが「譲っていただきたいのです」といったのと同じ意味で、ここでは快く売りたいという意味の売買の常等語である。「売る」という代わりに、「与える」というのと同じで、買う人の心を傷つけないで済むことになる(フォン・ラート)。日本語でも、売買が成立する状況では「差し上げます」というときがしばしばある。

 

12節である。「アブラハムは国の民の前で挨拶をし、」という。「国の民の前で」とは、7節と同じ状況である。「国の民であるヘトの人々に」挨拶したのであった。そのときは「ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクベラの洞穴を譲っていただきたいのです。」とお願いした時であった。今度は、相応の代価を払って譲っていただいたという公的なお礼という挨拶を述べるのであった。

 

「挨拶をし、」とは7節と同じ言葉であり、その言葉の直訳的意味は「ひれ伏す」である。今日でも公的な取引はこの形である。特に不動産に関してはそうである。また、ある特定(指定献金のような)の、高額な資産を動かすときもまた、このような公的な、丁寧な挨拶が必要。教会の場合は大会、中会、総会を開いて協議した結果を受けて実行するという形である。すべてを治める神に応える姿勢なのである。


牧 会 通 信

2016-07-05 00:57:51 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第13歌(カッコ内は筆子、その17)

◯すると答へた、「このやうにおれの葉をおれから分離した、この無法な破壊を ちやうど来て見た霊たちよ、 (注)「都市」はフィレンツェ

どうか葉をこの惨めな潅木の下に集めてくれ。おれは最初の守護神をバティスタに変えた、あの都市(注)のものだつた、そのために

あの守護神はその技術であの都市をずつと惨めにし続けるであろう、アルノ河の橋の上にまだその像が残されていないなら、(前回ここまで)

◯アッティラ(伝説ウンニ人の王)が残した灰燼の上にあの都市を再建した市民たちは、むだ骨折をしたことになるだろう。

おれはおれの家を自身の絞首台としたのだ。」

ダンテの「神曲 地獄」編 第14歌(カッコ内は筆子、その1)

◯湧きつのる故郷にたいする愛情に強ひられて、わたしは散らばつてゐた葉をかき集め、すでに声の弱つてゐたものに返してやつた。(つづく)

 

◯本日は、2016年7月3日は第二十七主日、三位一体後第六主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「創造主の力」という主題である。聖書は、詩編19・

1~15、その2節、「天は神の栄光を物語り大空は御手の業を示す。」という。詩人は天空の夜空に輝く星のひとつをも見逃さない。今日、新しく発見される惑

星を既に含んでいるのである。詩人の霊的洞察力は人間の知恵を越えて逞しく、神の力を表現するのに、驚きを覚える。

 

◯写真は、6月26日(午後2時)、教会の隣、県立美術館前のグランシアターで開催された大分交響楽団の「2016ファミリーコンサート」演奏風景。14・30撮

影A・N