五、「教会とわたしたち」(371)5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その12)
8 人生の幸・不幸は良き者の上にも、悪しき者の上にも等しく降りかかる。
~来たるべき世において、義しき者のために良き物を備えることは、神の摂理にかなうことであった。義しからぬ者がそれを享受することはない。不信心な者
のためには悪しき物が備えられる(前回ここまで)が良き者はそれによって苦しむことはないであろう。しかし、この世の禍福は両者に等しく与えられることを、
神の摂理は欲される。それによって人が良き物を余りにも熱望することなく(なぜなら、悪しき者もそれを所有する)、悪しき物を余りにも戦々恐々と避けること
がないためである。なぜなら、良き者もしばしばそれによって苦しめられるからである。
しかし、もっとも大切なものはわたしたちがいわゆる順境・逆境をどのように用いるか、ということである。良き者はこの世の幸いによって高ぶることもないし、
の世の禍いによって打ち砕かれることもない。しかし、悪しき者はこの種の不幸によって罰せられる。なぜなら、彼はこの世の幸いによって堕落しているから
である。もっとも、神は現世の禍福を分かたれる方法によって、そのみわざの働きを十分明らかに示される。もし神がすべての罪をいま・この世で罰せられる
とすれば、最後の審判の日には何も残らないと思われるかも知れない。他方、もし神の力が明らかに介入して罪を罰しない (つづく)(教団出版「神の国」出村彰
訳1968)