五、「教会とわたしたち」(370)
5.近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その11)
8 人生の幸・不幸は良き者の上にも、悪しき者の上にも等しく降りかかる。
ある者はこう言うであろう。「あなたが言うところの神の憐れみが、不信心で忘恩の輩にも与えられるのは、何としたことであるのか」と。それが日毎に良き者
の上にも悪しき者の上にも太陽を上らせ、義しい者にも義しくない者の上にも雨を降らせる方によるのでなければ、いったい何であろうか。そのように考えて
前非を悔い、自らの所行を改める者もなくはない。しかし他の者は、使徒パウロも言うように、「神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛
と忍耐と寛容との富を軽んじ、かたくなな、悔改めのない心のゆえに神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを自分の身に積んでいるのであ
る。神はおのおの(前回ここまで) そのわざにしたがって報いられる」(ローマ二・四~六)。それにもかかわらず、ちょうど神がそのむちをもって良き者を忍耐
へと訓練されるように、忍耐をもって悪しき者を悔い改めへと招かれる。それは神の憐憫が良き者を包み抱き、その峻厳が悪しき者を罰するために彼らの上
に与えられるのと同じである。
来たるべき世において、義しき者のために良き物を備えることは、神の摂理にかなうことであった。義しからぬ者がそれを享受することはない。不信心な者
のためには悪しき物が備えられる(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)