五、「教会とわたしたち」(388) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その27)
⒖.マルクス・レグルスは、宗教的信仰のゆえに喜んで捕囚に堪えた人々の偉大な範例である。しかし彼の異教的信仰は、彼からその益を奪い取ってしまった。
さらに、もしも神々の祭儀が、のちの世での報いとして幸福を与えるものであるとすれば、なにゆえ彼らはキリスト
教を非難し、ローマがこのような災害に会ったのは神々への礼拝を(前回はここまで)止めたからだ、と言い立て
るのであろうか。事実は、レグルスのごとく、もっとも熱心に神々を信仰した者にさえ、あのような不幸が襲い掛か
りうるのである。もっとも、ある種の狂人たちは驚くほどの盲目からして、「なるほど個々人は不幸に陥ることが
あっても、神々を礼拝する町全体が不幸に陥ることはない。」と強弁するであろう。これではまるで神々の力は
多くを救えるが、ひとりは救えないとでも言うようなものである。全体が個から成り立っていることはだれでも
知っている。
しかしながら、目下の問題はキリスト信者が捕虜となっていることである。厚顔無恥に、また無思慮にもわた
したちのいとも健全なる宗教を嘲弄する者どもは、このことに耳を傾け、黙すべきである。神々のもっとも熱心
な礼拝者であり、その名によって立てた誓いを守った者が、その祖国から追い出され、どこでも市民権を拒ま
れ、捕われとなり、そして未曾有の残酷な拷問によるゆるやかな死によって殺されたことが、神々の不名誉と
ならないとすれば、聖~(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)