五、「教会とわたしたち」(389) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その28)
⒖.マルクス・レグルスは、宗教的信仰のゆえに喜んで捕囚に堪えた人々の偉大な範例である。
しかし彼の異教的信仰は、彼からその益を奪い取ってしまった。
~しかしながら、目下の問題はキリスト信者が捕虜となっていることである。厚顔無恥に、また無思慮にもわたしたちのいとも健全なる宗教を嘲弄する者どもは、このことに耳を傾け、黙すべきである。神々のもっとも熱心な礼拝者であり、そ
の名によって立てた誓いを守った者が、その祖国から追い出され、どこでも市民権を拒まれ、捕われとなり、そして未曾有の残酷な拷問によるゆるやかな死によって殺されたことが、神々の不名誉とならないとすれば、(前回はここまで)~
聖徒の中に捕囚となった者がいるからと言って、キリスト者の名が非難されるいわれははるかに少ない。少なくとも彼らは真の信仰をもって永遠の国を望み見ていたし、この世では異邦人、また巡礼者であることを知っていたのである。
⒗.多くの聖別された処女たちが捕囚の間に暴行を蒙った。彼女らが進んで同意したのでない限り、
これは彼女らの魂の罪を意味するであろうか。
我々の敵対者は捕囚の恐怖を大いに誇張し、その証拠として既婚・未婚の婦人たちのみならず、聖別された処女たちまでが襲われたことを列挙することによって、特に重大な非難をキリスト教に加えうると考える。こうした事柄を~(つづく)
(教団出版「神の国」出村彰訳1968)