日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-12-08 02:57:29 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(391)

近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その30)

⒗.多くの聖別された処女たちが捕囚の間に暴行を蒙った。彼女らが進んで同意したのでない限り、これは彼女らの魂の罪を意味するであろうか。

それゆえに、次のことをまずしっかりと弁え知るべきである。それは、善良な生活を送るに必要な徳というものが宿るのは、ひとのこころの中にであり、また肉体が聖くされるのは聖別された意志の働きによる、ということである。もし意思さえ

毅然としているならば、だれか他の人がどのようなことを肉体に、また肉体によって行おうとも、その人自身が自ら何か罪を犯すことなしには攻撃を逃れられないかぎり、被害者には何の咎もない。しかして、他人の肉体になしうることは乱暴

のみならず、欲情の行いをも含む。後者の範疇に属する行為は、貞節を損なうことがない。貞節は平穏な精神によって(前回はここまで) のみしかと保たれるからである。被害者が恥ずかしく思うのは、自分の意志もこれに同意したかも知

れない、と考えるからである。肉の歓びへの何らかの屈服なくしては、このようなことはなかなか起こらないものであろう。

 

⒘ 処罰や汚辱の恐れから自殺をすることに

ついて

このような非業を忍ぶよりは、むしろ死を選んだ婦人たちについては、感動の余り彼らのために赦しを願わない者がいるであろうか。他方、他人の悪口を避けようとして自分自身で

~(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2016-12-08 02:54:48 | 大分中央ウィークリー

創世記24章12節である。「祈った。『主人アブラハムの神、主よ、どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。』という。『主人アブラハムの神』という呼び方は始めてである。本人の信仰があってその上で強い呼

びかけなった。この祈りの時は、約1千キロを走破して目的地ナホルに到着した第一日であった。

 

「慈しみを示してください」という、その「慈しみ」は原語では「『へセド』であり、神の人間への重要なかかわり方、神の態度を現す言葉である。したがって、「『へセド』を示してください」というのは、神様のわたしたちへの基本的な、契約を実現

させる神の固い慈しみである。やがてキリストの十字架に開示され神の愛となる。

 

13節である。「わたしはいま、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、」といいます。前節からアブラハムの僕の祈りが始まった。もちろん現地に到着したのだから、祈りの本論に入ろうとして

いるのである。神様に向って、位置の認定から始まりました。「わたしはいま、御覧のように、泉の傍らに立っています。」という祈りから始まっている。長旅の休憩をもふくめて、井戸の傍らに休み場を取ったと考えてよいであろう。

 

また井戸は、若い娘たちが水を汲みにやって来るところであった。嫁になる娘探しが始まったといってよい。いわゆる町の娘たちの待ち伏せであった。いよいよその場所とときが来たのであるから、神の御心を尋ねるという意味での決定的な

若い女に出会うかどうか、恐ろしくもあった。何を持って、その子であると決めるのか、まずここから、すなわちその認定のしるしとなるものをきめねばならない。考えた。


牧 会 通 信

2016-12-08 02:26:02 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 15(カッコ内は筆子、その6)

◯「おお、息子よ、」と霊は言つた、「この群れの中の誰にせよ、しばしでも立止まれば、それから百年も火に傷つけられ放題で、身を守るすべもなく横はるのだ。

 だから先へ進んでほしい。わたしはそなたの裾に寄り添つて行かう、それからきりのない責苦を哭(な)き悲しみながら行く、わたしの仲間たちに追ひつかう。」(前回ここまで)

◯わたしは霊と同じ高さで歩くために、道から下りる気にはどうしてもなれず、うやうやしく歩くもののやうに頭を下げたままでゐた。

霊は言ひ始めた、「どんな運の風の吹きまはしで、死なぬのに下のここへ連れて来られたのか? 道案内してゐるのは誰なのか?」

「あの上の晴れやかな世界で、」とわたしは答へた、「わたしの年が頂点に達せぬうちに、わたしは谷に迷ひこんだのです。(つづく)

 

◯本日、2016年12月4日は、第四十九主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「人となったみことば」という主題。聖書はⅡテモテ3章14~17節、その16節、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、

義に導く訓練をする上に有益です。」という。ここの聖書は、今日の旧約聖書で、いわゆる律法主義になるというのでない。自分の罪を知り限りなく謙遜になり、感謝する人になるのに有益ですと。

写真は、先週11月27日特別伝道礼拝の講師として、力強く、また分りやすく説教を語られられた北海道中会・北広島山手伝道所牧師、秋山英彦先生です.