⒘ 処罰や汚辱の恐れから自殺をすることに
ついて。
五、「教会とわたしたち」(393) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その32)
ユダが自殺したとき、彼は悪人を殺したのである。彼はキリストの死についてのみならず、自分自身の死に (前回はここまで) ついても有罪のままで生を終えた。かくして彼は罪に罪を加えることとなった。
どうして何の悪事をもなさなかった人が、自分に対して悪をなし、自殺によって罪なき人を殺すべきであろうか。もっと罪深い者がそれを果たすことを妨げるためであろうか。だれか他の人にその機会を与えないため、人は自分自身に対し
て罪を犯すべきであろうか。
⒙ 他人によって加えられた情欲の暴行は道徳的悪事であろうか。肉体はそれを忍ぶように強いられても、こころは同意を与えることなしに堪え忍ぶのである。
しかしこうも言えるであろう。その人は他人の情欲によって汚されるのを恐れているのだ、と。しかし彼は他人の情欲によっては汚されることはない。もし汚されるとすれば、それは彼自身の情欲によってである。さて、しとやかさはこころの
美徳であり、勇気はその伴侶である。勇気はあらゆる種類の悪に同意を与えず、かえってこれを耐え忍ぶのである。どのように慎み深くすぐれた人であっても、彼自身の肉体を意のままにする力を持たない。ただ彼のこころが受け入れたり
拒絶したりするところに従うのである。人の肉体が力づくで捕えられ、 (つづく)~(教団出版「神の国」出村彰訳1968)