日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-12-31 12:37:28 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(393)     近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その33)

⒙ 他人によって加えられた情欲の暴行は道徳的悪事であろうか。肉体はそれを忍ぶように強いられても、こころは同意を与えることなしに堪え忍ぶのである。

 しかしこうも言えるであろう。その人は他人の情欲によって汚されるのを恐れているのだ、と。しかし彼は他人の情欲によっては汚されることはない。もし汚されるとすれば、それは彼自身の情欲によってである。さて、しとやかさはこころの

美徳であり、勇気はその伴侶である。勇気はあらゆる種類の悪に同意を与えず、かえってこれを耐え忍ぶのである。どのように慎み深くすぐれた人であっても、彼自身の肉体を意のままにする力を持たない。ただ彼のこころが受け入れたり

拒絶したりするところに従うのである。人の肉体が力づくで捕えられ、(前回はここまで) 不本意ながらも他人の情欲を満足させる手段に利用されたからと言って、彼の慎みが失われたとは分別のある人は考えないであろう。もしも慎みがそ

のような方法で失われたとすれば、それはこころの美徳ではないし、良き生き方にも属さず、むしろ力や美や健康といった肉体的条件と考えられるであろう。そのような良きものを失うことは、決して有徳な生き方を失うことではない。

 もしも慎みというものがこのような種類のものであるとすれば、なぜそれを失う恐れがあるからと言って、われわれの生命そのものまでも危険に曝さなければならない道理が~

(つづく)~(教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2016-12-31 12:34:03 | 大分中央ウィークリー

創世記24章15節である。「僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女はアブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、」という。つまりイサクにとっては従兄弟の子、再従兄妹(ま

たいとこ)になるわけである。アブラハムの妻サライもまた、彼の異母妹であった。それで、エジプトの難を逃れるために、妻のサライに、「どうか、わたしの妹だ、といってください。」(創12・13)と頼んだときがあった。彼女もまた、確かに彼の

腹ちがいの「妹」であった。

 

「僕がまだ祈り終わらないうちに」という。井戸のそばにどのような若い女性がやってくるかわからないときに、それを識別するしるしとして「『らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ」と祈った。神がなさっておられることが、わた

したちに意識されないのが普通である。それほど神と人間とは密接な関係にある。それで、僕は識別の備えを設定した。われわれに祈りへの神の応答の早さがわかる。

 

16節である。「際立て美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、」とある。前節で、「リベカが~やってきた」とあったが、そのとき、僕本人はその美しい娘の名前「リベカ」の名を知って

いるはずがない。編集段階での挿入であった。僕自身は旅の人の一人としての素知らぬ顔をして、水汲みの前後心の変化を考えながら丹念に観察していたのであった。

 

「際立て美しく」とある。彼は気心の美しさを求めていた。従ってその美しさにかえって警戒心を寄せていたのかもしれない。その意味で「水を満たして上がって来ると、」どうなのか。その苦しみによる美しさの変化が参考になりそうである。