日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2016-01-20 22:54:50 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第12歌(カッコ内は筆子、その8)

◯わたしの師は言つた、「返辞はそこに近づいたらキロン(チェンタロウの仲間)にする、お前のいつも厚かましい逸(はや)り心は禍の因(もと)だつたからな。」

  それから肱でわたしに触つて言つた、「あれがネッソだ、美しいデイアニラのために死に、自ら自身の復讐を果たしたあいつだ。

  自身の胸を見詰めてゐる真中のものは、アキッレを養い育てた大キロンで、もう一人はあんなにも怒りで燃え狂つてゐたフォロだ。

(ここまで前回)

◯このものたちは何千とこの堀のまはりを走つてゐて、自身の罪により規定されてゐる以上に、たぎる血から身を出す霊に矢を射かけるのだ。」

わたしらがこの迅速な獣たちに近づくと、キロンは矢を取外して、矢筈(やはず)で髪を顎の左右の後へ押しやつた。

大きな口が現れると仲間たちに言つた、「後ろの奴が触れたものが動くのに気づいたか?死者の足はいつもあのやうに動かさぬ。」(つづく)

 

◯2016年1月17日は、新年の第三主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「献げる」という主題である。ヨハネ1章35~42節、その42節、「そして、

シモンをイエスのところに連れて行った。~」という。シモンはこの時、イエスから「ケファ―(岩)~」という名をいただいた。この様にして、イエスに

身を「献げる」のであった。

 

◯写真は、年賀状。東京・柏木教会会員、画伯、小野寺玲子氏、題「冬の訪れ」606×727ミリ富山県・立山(三山)の画である。立山は台形の形であるが、写真は左(北)から、「富士の折立」(2999m),中央に「大汝山」(3015m、右端「雄山」(2991.6mの三山が連なって台形に見える。画伯は10月初め、館山に初雪が降ったころ描いたものであろう。

 


プロテスタントとカトリック 

2016-01-16 01:07:28 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(344)

4.近代の教会の夜明け―宗教改革とその後―

 

その緊張が、実力行使、すなわち軍事対決にまで高まったのが1529年6月のことであった。しかしこのようなときの人間社会

は経験したことのない社会的混乱に陥るのが常である。生活と命をかけた権謀術策の渦の中に巻き込まれるのであった。特

にカトリックを全面的に擁護する皇帝カール5世の母体ハプスブルク家(スイスばかりではなく、スペイン、ドイツ、ドイツ低地

方、北イタリアを支配下に置く)の存在は、ツヴィングリー福音主義にとって難敵中の難敵であった。この時は仲裁が入り、古

都ルツェルンに会談して一つ町に一つの宗教、人は宗教によって町を選ぶ「現状維持」形態で二つの宗教存在を認めた。

戦乱に至らず(ここまで前回) 解決した。

この現状維持決着は不安定なものになる可能性があった。なぜなら自らの信仰を守るために信仰によって町を形成するのは

良いが、そうはうまく行かない場合の移住権を認めるというものである。そのように事が進むであろうか一つの実験室であった。

町は小さくなるが依然として、一つの地域に一つの公認宗教しかないのである。新教の自由にはならない。その点から、ツウィ

ングリには、改革派の進展を押さえつける結果となり、このカッペル和議は失敗としか見えなかった。ベルンとチュリッヒの巨大

都市の圧倒的優勢なときに、ルツェルンなどのカトリックのキリスト教連合を一気に押しつぶすべき機会を失っただけであった。

(つづく)


聖書研究

2016-01-16 01:03:45 | 大分中央ウィークリー

創世記22章8節である。「アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。」という。

アブラハムは子供の問いかけに答えないわけには行かない。子供はささげるものは、小羊であると思い込んでアブラハムの後を着いて来たに違いない。

 

父親のアブラハムはそうではなかった。神の要望は、そのアブラハムの独り子イサクを「焼き尽くす献げ物としてをささげなさい」(22・2)であった。しかし、自分

の子供に言えなかった。子供の心の中にあるとおり答えた。「わたしの子よ、その献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と。心換えしたのでない。言えなかった。

 

9節である。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。」といわれます。ここで、

わたしたちの問題は「息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。」というところである。息子といえども、この年頃になると自分の身に起こる事の異常性に

気がつくはずである。そのことについて、一言も触れられていないではないか。

 

どうしたことかと、はたと考えさせられるところである。不思議な静寂である。神の時の遂行で、あらゆる人間的行為の沈黙であったとしか言いようがない時の

流れである。子供自身も身を任す以外になかったのであった。「息子イサクを縛って」というところは、先の「小羊はきっと神が備えてくださる」とイサクの父との

合意を暗黙のうちに含めている。そこに神ご自身の権威が現れているというべきであろう。


牧 会 通 信

2016-01-16 00:53:47 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第12歌(カッコ内は筆子、その8)

◯ 崖下の堀の間を縦に並んで、弓矢で武装したチェンタロウ(神話では、胸部より上は人間、下は馬)たちが走つてゐた、上の世界でいつも狩に出かけたときのやうに。

  わたしらが下りてくるのを見るとみんな立止まつて、その組の中から三人が別れ出た、弓とまづ選びつがへた矢をもつて。

  その一人が遠くから叫んだ、「その崖を下りてくるお前たちはどの刑罰を受けに来たのだ?そこから言へ、言はぬと射るぞ。」

(ここまで前回)

◯わたしの師は言つた、「返辞はそこに近づいたらキロン(チェンタロウの仲間)にする、お前のいつも厚かましい逸(はや)り心は禍の因(もと)だつたからな。」

  それから肱でわたしに触つて言つた、「あれがネッソだ、美しいデイアニラのために死に、自ら自身の復讐を果たしたあいつだ。

  自身の胸を見詰めてゐる真中のものは、アキッレを養い育てた大キロンで、もう一人はあんなにも怒りで燃え狂つてゐたフォロだ。

(つづく)

◯2016年1月10日は、新年の第二主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「イエスとヨハネ」という主題である。マタイ3章1~6節、

その1節、「そのころ洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた」といった。』」という。

人は悔い改めなければイエスに近づけない。救いはこの順序による。それゆえヨハネの働きは重要。

 

◯写真は、新年夕礼拝の記念写真。人数は三人、1月3日夕、み言葉による礼拝と共に恵みの新年が。


プロテスタントとカトリック

2016-01-06 23:12:52 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(343)

4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―

チューリヒでは一五二四年の12月修道院がすべてが廃止され、翌年3月13日イースターの聖餐式をもってカトリックのミサはその町から姿を消した。しかしその形はカトリックの組織がそのままで、その内容がプロテスタントに裏返っただけであった。スイスは13の地域共同体〈邦〉であるから、全体の連邦から見れば、一部の地域で分裂が始まったにすぎない。しかし実際は1528年にベルンが、孤立無援に近いチューリヒの大きな支えとなり、1529年にバーゼルが加わり急速に仲間を加えたが、その反対の傾向も強くなった。山岳地の諸邦ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、ツーク、ルツェルンの5邦は「カトリック・キリスト教連合』を結成して対抗してきた。その緊張が、実力行使、すなわち軍事対決にまで高まったのが1529年6月の(ここまで前回)ことであった。

しかしこのようなときの人間社会は経験したことのない社会的混乱に陥るのが常である。生活と命をかけた権謀術策の渦の中に巻き込まれるのであった。特にカトリックを全面的に擁護する皇帝カール5世の母体ハプスブルク家(スイスばかりではなく、スペイン、ドイツ、ドイツ低地方、北イタリアを支配下に置く)の存在は、ツヴィングリー福音主義にとって難敵中の難敵であった。この時は仲裁が入り、古都ルツェルンに会談して一つ町に一つの宗教、人は宗教によって町を選ぶ「現状維持」形態で二つの宗教存在を認めた。戦乱に至らず(つづく)