日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-12-14 00:50:55 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(392)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その31)

⒘ 処罰や汚辱の恐れから自殺をすることに

ついて

このような非業を忍ぶよりは、むしろ死を選んだ婦人たちについては、感動の余り彼らのために赦しを願わない者がいるであろうか。他方、他人の悪口を避けようとして自分自身で(前回はここまで)罪を犯すようになることを恐れ、あえて自

殺することのなかった人々も存する。だれでもこのことのゆえに彼らに罪を負わせようとする者は、自分自身が愚昧の非難を蒙らないように注意しなければならない。たとえ有罪であるとしても、法廷の死刑判決によらないかぎりは、私人が

他の人間を殺すのが違法であるとすれば、自分自身を殺す人間は必然的に殺人の罪を犯していることとなる。もし人が自殺するとすれば、そのような手段に訴える理由が小さければ小さいほど、その人の罪は大きい。われわれがユダのし

たことを嫌悪するのは、理由のあることである。事実、彼が自らくびれて死んだとき、彼はその邪悪な裏切りの罪を償うどころか、かえって罪を増し加えたのであって、二重に断罪さるべきである。神の慈愛に絶望し、ただ後悔という形でだけ

悔いることにより、彼は救いに至らせる悔い改めに所を与えなかった。ましてや、そのような極刑に値することを何もしなかったものは、自らの生命を絶つようなことはすべきではない。ユダが自殺したとき、彼は悪人を殺したのである。彼は

キリストの死についてのみならず、自分自身の死に (つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2016-12-14 00:48:24 | 大分中央ウィークリー

創世記24章13節である。「わたしはいま、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、」といいます。前節からアブラハムの僕の祈りが始まった。もちろん現地に到着したのだから、祈りの本論に

入ろうとしているのである。神様に向って、位置の認定から始まりました。「わたしはいま、御覧のように、泉の傍らに立っています。」という祈りから始まっている。長旅の休憩をもふくめて、井戸の傍らに休み場を取ったと考えてよいであろう。

 

また井戸は、若い娘たちが水を汲みにやって来るところであった。嫁になる娘探しが始まったといってよい。いわゆる町の娘たちの待ち伏せであった。いよいよその場所とときが来たのであるから、神の御心を尋ねるという意味での決定的な

若い女に出会うかどうか、恐ろしくもあった。何を持って、その子であると決めるのか、まずここから、すなわちその認定のしるしとなるものをきめねばならない。考えた。

 

14節である。「そのひとりに、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が「どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう。』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったも

のとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」という。その娘の「らくだにも」との気遣いにポイントがある。娘は娘でも他の娘と違うという神の支持としるしを読み取ろうとしている。


牧 会 通 信

2016-12-14 00:33:41 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 15(カッコ内は筆子、その7)

◯わたしは霊と同じ高さで歩くために、道から下りる気にはどうしてもなれず、うやうやしく歩くもののやうに頭を下げたままでゐた。

霊は言ひ始めた、「どんな運の風の吹きまはしで、死なぬのに下のここへ連れて来られたのか? 道案内してゐるのは誰なのか?」

「あの上の晴れやかな世界で、」とわたしは答へた、「わたしの年が頂点に達せぬうちに、わたしは谷に迷ひこんだのです。(前回ここまで)

◯昨日の朝その谷に背を向けたばかりなのに、またそこへ戻つていく途中で、この方がわたしに現れ、この路を通つて家へ導き返してくれるのです。」

すると言つた、「そなたはそなたの星に従つて進めば、必ず栄光の港に着けるのだ、あの美しい世界でわたしが狂ひなく見抜いたとすれば。

わたしはこのやうに早く死ななかつたら、天がそなたに対してそのやうに恵み深いのを見て、そなたに仕事に対する激励(はげまし)を与へただらう。(つづく)

◯本日、2016年12月11日は、第五十主日となる。日本聖書協会「聖書愛読こよみ」は「主が来られるまで」という主題。聖書はⅠコリント4章1~5節、その3節、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれよ

うと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」という。パウロは自信家ではない。誰よりも罪深さを知る。しかし、「自分を裁かない。」どうしてか、考えられよ。

写真は、11月13日、沖縄の宜野湾告白と沖縄伝道所を問安の後、葬儀のため辺野古まで教職者3人で出張の帰路、沖縄伝道所会員宅を訪問して、写真のパパイアを沢山いただく。その一つを持ち帰った。植

物分類は被子植物で野菜である。気温10℃以下では成長停止し、腐蝕。奇妙な野菜で、大分県で冷蔵庫に保存したら腐蝕する。長さ18㎝幅14㎝、種を除き皮肉を食用。


プロテスタントとカトリック

2016-12-08 02:57:29 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(391)

近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その30)

⒗.多くの聖別された処女たちが捕囚の間に暴行を蒙った。彼女らが進んで同意したのでない限り、これは彼女らの魂の罪を意味するであろうか。

それゆえに、次のことをまずしっかりと弁え知るべきである。それは、善良な生活を送るに必要な徳というものが宿るのは、ひとのこころの中にであり、また肉体が聖くされるのは聖別された意志の働きによる、ということである。もし意思さえ

毅然としているならば、だれか他の人がどのようなことを肉体に、また肉体によって行おうとも、その人自身が自ら何か罪を犯すことなしには攻撃を逃れられないかぎり、被害者には何の咎もない。しかして、他人の肉体になしうることは乱暴

のみならず、欲情の行いをも含む。後者の範疇に属する行為は、貞節を損なうことがない。貞節は平穏な精神によって(前回はここまで) のみしかと保たれるからである。被害者が恥ずかしく思うのは、自分の意志もこれに同意したかも知

れない、と考えるからである。肉の歓びへの何らかの屈服なくしては、このようなことはなかなか起こらないものであろう。

 

⒘ 処罰や汚辱の恐れから自殺をすることに

ついて

このような非業を忍ぶよりは、むしろ死を選んだ婦人たちについては、感動の余り彼らのために赦しを願わない者がいるであろうか。他方、他人の悪口を避けようとして自分自身で

~(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2016-12-08 02:54:48 | 大分中央ウィークリー

創世記24章12節である。「祈った。『主人アブラハムの神、主よ、どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。』という。『主人アブラハムの神』という呼び方は始めてである。本人の信仰があってその上で強い呼

びかけなった。この祈りの時は、約1千キロを走破して目的地ナホルに到着した第一日であった。

 

「慈しみを示してください」という、その「慈しみ」は原語では「『へセド』であり、神の人間への重要なかかわり方、神の態度を現す言葉である。したがって、「『へセド』を示してください」というのは、神様のわたしたちへの基本的な、契約を実現

させる神の固い慈しみである。やがてキリストの十字架に開示され神の愛となる。

 

13節である。「わたしはいま、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、」といいます。前節からアブラハムの僕の祈りが始まった。もちろん現地に到着したのだから、祈りの本論に入ろうとして

いるのである。神様に向って、位置の認定から始まりました。「わたしはいま、御覧のように、泉の傍らに立っています。」という祈りから始まっている。長旅の休憩をもふくめて、井戸の傍らに休み場を取ったと考えてよいであろう。

 

また井戸は、若い娘たちが水を汲みにやって来るところであった。嫁になる娘探しが始まったといってよい。いわゆる町の娘たちの待ち伏せであった。いよいよその場所とときが来たのであるから、神の御心を尋ねるという意味での決定的な

若い女に出会うかどうか、恐ろしくもあった。何を持って、その子であると決めるのか、まずここから、すなわちその認定のしるしとなるものをきめねばならない。考えた。