創世記24章25節である。「更に続けて、『わたしどもの所にはわらも餌もたくさんあります。お泊まりになる場所もございます。』と言っ
た。」という。もちろん、このリベカの答を聞くまでもなく僕はそうであろうと予測していた。リベカの言葉によって、自分自身の考えと一致して、
これこそ神の祝福であると確信した。従って、僕は感謝して、彼女「リベカ」のその言葉に従うことにした。何にもかも順調であるのに、
これこそ神の仕業であることを知って畏れを覚えたに違いない。
アブラハムの弟ナホルとミルカの間の八人の子は、イサクの従兄弟に当るから八番目の末の従兄弟ベトエルの娘がリベカである。
イサクからは、再従姉妹(はとこ)になる。そのリベカが、アブラハムの一人息子イサクの嫁に選ばれようとしている。近親結婚になるが、
この時代ではまだ離れている方である。ちなみにアブラハムの妻サライはアブラハムから見れば、「父の娘」腹違いの妹(創20:12)であった。
26節である。「彼はひざまずいて主を伏し拝み、」とある。彼、アブラハムの僕は、姿勢を正して祈ったのである。礼拝で牧師が祝祷をささげるとき、
大方の牧師は手を上げて祝祷する。祭司「アロンは手を上げて民を祝福した」(レビ9・22)によっていると思われる。ここでは「彼はひざまずいて主を伏し拝み、」と。
わたしたちにも祈りの時の姿勢があるとすれば、ここの「ひざまずいて」なのかも知れない。
とにかく、彼は事態の成り行きにあまりにも彼が祈った通りで、近くにいます神の御存在に気づき、畏れをなしたのであろう。祈りの時、
実際にはどんな姿勢でもいいが、もし姿勢を低くすることによって心が低くなれば、この姿勢が役に立つ。