標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

平成は終わるのだろうが、昭和の時代に作られた歴史は現在も残存しているようだ?

2019-03-09 23:12:31 | 日記
NHKの“映像の世紀第12集「昭和 激動の宰相たち」”を視聴した。
昼間の外作業の後、風呂につかり、夕食を食べ、けだるい状態で見ていた。
淡々と過去を語る口調が、一層眠気を誘った。しかし、花粉症のせいもあってかゆくて半分眠い目をこすりながら、最後まで見ることはできた。

冒頭は、宰相ではなく、チャップリンのエピソードから始まった。昭和7年の初来日の際は、海軍青年将校たちが首相官邸を襲撃し当時の犬養首相が殺害された。五・一五事件である。首相と会談する予定であったチャップリンは、会談を果たせなかった。2回目の来日の時は、二・ニ六事件によって東京に戒厳令が敷かれていた。「親日家のチャップリンが見た日本は、首相の命を奪い軍国主義へと進む日本の姿だった」とのエピローグで、激動の宰相を当時の映像により追っていった。

当時の婦人誌の紙面をまるでアイドルのように飾った公爵宰相の近衛文麿。戦争を回避しようとしていたが、軍を制御できず、戦争への道を開いてしまった。

東條英機は軍人宰相だった。父親も軍人で学校でも軍人としての徹底した教育を受けたという。精神主義を掲げ、戦況が悪化しているにもかかわらず、本土決戦に備えて国民に徹底抗戦を求めた。

外交官としての経験を活かし独自の外交によりサンフランシスコ講和条約委調印し、日本の独立を成したワンマン師匠・吉田茂。アメリカは共産圏の進出を防衛するため、日本の再軍備を迫ってきたという。しかし、吉田茂は、経済を立て直すのが第一だと主張し続けたという。

番組とは無関係だが、国道1号の横浜区間のバイパス、通称ワンマン道路と呼ばれている。吉田首相が開かずの踏切といわれる戸塚駅前の大踏切を避けるため、大磯の吉田邸から東京に通うためこのバイパス道路を建設した。このバイパスを父の作った輸出品を収めるため、横浜の港まで、父の運転で幾度か通ったことがある。私にとって「ワンマン道路」とは懐かしい響きだ。

安保改定に政治生命をかけた岸信介。衆議院での強行採決をした。そして、反対運動が続く中、新日米安保条約が自然成立した。その4日後岸信介は辞意を表明した。

こうして番組は、戦争、敗戦、そして独立の激動の日本の姿を、当時の宰相を通して描いていた。
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