標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

手作り石窯でピザとパン焼き

2017-11-30 19:32:34 | 日記
久しぶりに石窯に火を入れた。ピザとパンを焼こうと思う。生地作りから行うと早朝から作業を行わなければならないので、生地はホームベーカリーを使った。私は火起こしとパンの2次発酵そして焼き作業を担当。妻は生地作りとピザのトッピング。


薪。今回は奥に積んであるものを使った。


薪がうまく燃えだした。火をつけるのは案外難しい。2~3回ライターかマッチを使うことがあるが、今日は1回で着火し燃えだした。


火がついた直後は、煙が多い。


順調に燃えだしたので、火床の蓋をして空気の流通を少なくした。


煙突から煙が出ている。順調に燃えている。

火を起こした後の薪くべは頻繁に行わなければならない。今日は2年前に頂いた薪を使った。よく乾燥していたので、燃えるのが早い。10分おきに薪をくべなければならなかった。

久しぶりの石窯使用だったので、火力の調整が難しく、強めの火力だったので一度目に焼いたピザは見事に焦げてしまった。窯に入れたピザが熱すぎて取れないほどだった。窯を熱しすぎた。


ホームベーカリーで生地を発酵させているところ。もちろんこれで、食パンなどは焼けるので、日常のパンはこれで焼いている。


ベンチタイムを取った後の生地。3個は半分にして、6個の丸い型に丸める。また、二つは山形パンの型に入れた。

1回目は火加減の調整失敗で、ピザが焦げてしまった。窯のふたを開けるなどして火力の調整をした。2度目はピザは1枚にして、主はパンを焼くことにした。山形パンと生地を丸めただけの簡単パンとした。


焼床に入れた1回目のピザ。残念ながらこれらは周囲と底が焦げてしまった。


焼床に入っている丸いパン。頭がこんがりと色付いている。そろそろ焼き上がり。右のケースには山形パンが入っている。


2回目に焼けたピザ。今度は焦げずに成功した。石窯で焼くと、土手が盛り上がり、とにかく生地がもちもちになる。ピザのトッピングは、玉ねぎ、ピーマン、エリンギ、サイコロ切りしたあげ豆腐、ベーコン、そしてチーズだった。


焼けた6個の丸型パン。直径7~8cmほどに膨れている。


焼きあがった山形パン。熱いうちに型から出した。

久しぶりの石窯を使用したので、手順や火加減の調整などで戸惑った。焼き終わったのは午後1時過ぎになっていた。焦げたピザが、今日の昼飯となった。でも、焦げた部分以外は、もっちりした食感で石窯のピザならではの味わいだった。もちろんパンは、丸型も山形もよい焼き加減で、中はもちもちだった。
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薬草を求めて小鹿野行きと、名残だがまだ見られるモミジたち

2017-11-29 19:51:48 | 日記

ミューズパークから小鹿野方面を望む。薬師の湯は色付いている山並みの奥にある。

妻の知り合いから、健胃薬になるキハダを頂いた。妻が煎じて飲んだところ、胸やけが収まるという。夫婦ともに、齢のせいか少々の食べすぎや油ぽいものを食べたあとなどに胸やけすることがある。
私も飲んだところ、苦みは昔父が飲んでいたセンブリに似ていた。これは、効果がありそうと思い立ち、友人が買ったという小鹿野町にある「道の駅 両神温泉 薬師の湯」に行った。


道の駅の売店は、こじんまりした売り場だが、地元の野菜売り場の中に混じってキハダがあった。長さ10cm、幅2cm、暑さ2mm程で、幅の切り口がやや円弧状に反った木だった。その板が透明の袋に30枚ほど入っていて、500円であった。30枚も入っていれば、だいぶ日持ちするだろうということで、とりあえず一袋買った。

道の駅には昼頃着いた。売店の隣が、無料休憩所となっていて、天然酵母パンが売っていた。その隣の別棟は、薬師の湯だ。食堂もあるが、タロ(犬)も一緒だったので、天然酵母パンを買って、タロが散歩できるところに向かった。

目的地は、ミューズパークだ。以前もイチョウの黄葉を紹介したところだ。公園では歩くことに専念しようと、パンは車の中で早々に済まし、タロとともに歩きだした。


イチョウの黄葉を見に来た時の木々の風景は一変していた。まっ黄色に黄葉した葉は、全て落ち、イチョウの木は、葉が茂っていた枝が細く黒く見えた。私には、葉だけではなく木の本体まで枯れてしまったのではないかと感じるくらいであった。


タロはとにかく大喜びで、ちょこちょこ歩きだが、どんどん進む。妻とタロは先に行ってしまった。私は枯れ木のようなイチョウを見ながら、まだ紅葉の名残があるモミジなどを写真に収めながら後を追った。


歩き始めて最初に眼に入った鮮やかな赤。ピラカンサスの並木があった。


林の中はまだ紅葉がきれいだった。

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そしてさらに林の奥を見ると、黄葉と紅葉がグラデーションになっていた。


かりんの実がなっている。


こぶしが芽をつけていた。寒い冬をこのまま越すのか。


平日だけれど、トレインが走っていた。親子連れなどのお客さんもいた。


高々とそびえるメタセコイヤには、空と雲が似合っていた。


ミューズパークのパルテノンの近くにメタセコイヤが数本立っている。


メタセコイヤの色付いた葉。ヒノキ科の木で、和名はアケボノスギという。


メープル・ベイスというカフェ。残念ながら今日は定休日だった。


帰り際に見た紅葉。まだまだ観賞できると思った。


背高泡立ち草、ススキ、枯れた木々そして武甲山。

あと3日もすると秩父夜祭だ。今日は、風もなく穏やかな小春日和だった。祭の前の静けさの中に、やがて来る祭の喧騒が耳の中で囁いている気がして、何かワクワクする散歩だった。

夜祭は秩父市の近くに住んでいるのに、あまり来たことがない。今年は、チャンスがあれば来てみたい。
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子供の「道徳」態度等を評価するなんて? 個性を摘むことになるのではないか?

2017-11-28 19:17:02 | 日記
国会の予算委員会で、来年以降に予定されいる、小中学校において道徳が教科に格上げされる件が取り上げられた。野党の質問者は、記述式の評価が入試に使われかねないと懸念を示した。



これについて、文科省は道徳の評価については、調査書(内申書)には記載しないように指導してるとのこと。文科大臣は「各学校に道徳の評価を入試に使わない趣旨の徹底を図りたいとのこと。質問者はさらに、一部の私立中学が通知表の写しの提出を求めていると危惧した。文科大臣は文部省で実態調査を行い、都道府県に結果を伝えたとのこと。

私は、答弁を聞いていたが、明確でない答弁で将来に不安・危惧が残ると感じた。

小中学校で道徳を教えることの必要性は分かるが、現実では大人が営む社会が模範とならなければならない。例えば、相撲界も模範とならなければならないはずだ。それなのに、しごき(暴力)はなかなかなくならないとか、今回の暴行問題も内々に処理すべきであったと発言する親方がいる。これでは、模範にならない。相撲界の闇を露呈している。



昨日、横綱審議委員会が開かれたが、その内容はさておき、相撲界でよく言われる「横綱の品格」について調べた。同委員会が定める横綱推薦の要領のなかに「品格」について判断する内規がある。

・相撲に精進する気迫
 ・地位に対する責任感
 ・社会に対する責任感
 ・常識ある生活態度
 その他横綱として求められる事項

さらに、「品格の確認は、上記基準につき当該力士の日常生活の観察および師匠の証言等により判断して行う」とある。

この中の、「精進」と「地位」はべつにして、「社会に対する責任感」と「常識ある生活態度」は、相撲界だけでなく、どのジャンルでも共通することだ。道徳教育においても、このような「品格」を盛り込むことには異論はない。一方、相撲界のように、大人社会の中では、品格の欠如を問われるのは、当然であり、品格への責務がある。つまり、品格に欠けるところがあれば、責任が問われるべきだ。

しかし、小中学生にあっては、大人になるための道を歩んでいる最中である。発達の過程では、様々な悩みを抱き、時にはあやまちを犯し反省することもあるだろう。こうした、未熟、変動の時期を過ごし、やがて、大人になり、責任感や常識が身についた大人になっていく。ひと時の行動や思いなど、道徳評価を内申書に書くのは、危険だと思える。ましてや入試においては、この道徳評価で、子供の将来を縛ってしまう危険性がある。子供の個性や特性が埋没してしまう可能性がある。

戦前の道徳教育のように、時の権力の意向が反映できるものであってはならない。そのためにも、道徳を学んでいる最中の子供たちの自由を奪ってはならない。子どもを評価することは、その後の人格を固定化することになる。

発達途上にある子供の道徳観や態度を評価してはならないと思う。
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インターネットとつながる家電が乗っ取られるという脅威

2017-11-27 19:06:30 | 日記
「狙われるIoT機器」ということで、NHKの特集やニュースで放映されていた。私が見た場面は、一般のユーザーが使っているWebカメラに、ウイルスが侵入して乗っ取られた。室内のカメラがユーザーの意図に反して動くという。家庭内の画面が誰かが見ている! パソコンやスマートフォンの世界だけかと持っていたら、インターネットにつながる家電にまでウイルスが侵入するということだった。

「IoT]とは、「Internet of Things」の略語で、あらゆるものがインターネットを通じてつながることによって実現する新たなサービス等を可能とすることとのこと。


古いスマートフォンに、三脚と広角レンズをつけて、アプリにより監視カメラとして設置したもの。しかし・・・?

私も最近まで、古いスマートフォンを利用して、外出時に留守番している犬の動向を知るためと、防犯カメラとして使っていた。そして、その画像を外出中に手持ちのスマートフォンで見ていた。しかし、カメラ代わりに使っていたスマートフォンは、電源を入れっぱなしにしているため、帰宅するとだいぶ熱くなっていた。

ところが、1~2か月前に、スマーフォンなどの充電器が過熱し、発火する事故の報道が数件あった。それからは、スマートフォンの監視カメラとしての使用は止めていた。そして、「狙われるIoT機器」の番組を見て、驚いた。止めておいてよかったなと思っている。

そもそも私が番組に関心を持ったのは、個人でできる対応はどのような方法があるのかを知りたかった。

番組の終盤で、専門家として対策としては、国等の機関におけるインターネットシステムの課題、家電機器を開発する上での対応を述べていた。現時点ではユーザーのレベルでの対応はないらしい。パソコンならウイルスソフトの導入など、ユーザーができる方法もある。しかし、家電製品はコンピュータがメインではなく、機器の中にマイコンが組み込まれているからだろう。家電の中に組み込む段階での課題らしい。

このようにウイルスソフトに狙われるものは、家電製品に限らない。自動車、医療機器も同様だ。アメリカの研究者が医療機器で実験をしたことが、特集で紹介されていた。

病院内のイントラに接続され、医師や看護師が離れたところから、薬の量などを調整できる「薬剤点滴装置」。ノートパソコンから操作し、機器の中のプログラムを解析しパスワードを読み取る。
やがて乗っ取る。装置に触れていないのに液晶パネルの画面が切り替わり、点滴装置のチューブから薬が大量に流れ出し始めた。装置を乗っ取り、薬の量を増やす命令を送ったという。重大な医療事故につながる可能性があるという。

便利だが、常に危険にさらされている。
専門化の指摘が紹介されていた。
「あらゆるものがインターネットにつながる時代を迎え、ものづくりとインターネットの垣根がなくなった今、両方の知識や発想を兼ね備えた人材がこれから不可欠になる。日本はアメリカと比べ、こうした人材の育成が遅れていると言わざるを得ない」。

20年も前の私の体験だが、あるアメリカ人と話していて、日本の中小組織では一人でいろいろなことをやるという話をしていたら、「それはルネッサンスマンですね」と言われたことがあった。ルネッサンス時代のガリレイ・ガリレオは少なくとも医学、物理学、天文学、哲学に精通していて、ひとりで何でもできるということからだという。しかし、今や日本は細分化されてきていて、アメリカの方がルネッサンスマンになっている。
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より安全な駅のホーム利用には、点字ブロックよりホームドアが必須

2017-11-26 19:25:15 | 日記
Yさん、いつもコメントありがとうございます。
昨日の記事に関して、ホームの点字ブロックの上を歩いていて、貴重な体験談を頂きました。今日はこれに関することですが、補足しホームドアのことについて述べます。


点字ブロックの利便性とリスク。立場によって様々。

今から40年前の話です。日本で発明された点字ブロックが敷設されてから、10年ほど経った頃に聞いた話。

「日本には、視覚障害がある人たちが街中を歩くのに便利なものがあるということで、フランス(たぶん)から点字ブロックについての調査団がやってきた。さまざまな角度から検討したところ、当時フランスでの点字ブロックの導入は止めたとのこと」

「その理由は、子供、高齢者、足の不自由な人や車いすの人はじめ、ハイヒールを履いた人、雨の日など濡れた路面などの様々な条件で支障がある。視覚障害がある人にとっては良いかもしれないが、その他の人にとっては、歩きにくい、車いすの操作がしにくい、躓く、転ぶなど危険な面もあるからということだった」

視覚障害がある人にとっては外出しやすくなり、バリアフリーとなったが、その他の人にとっては、バリアとなるということだ。世界に点字ブロックは広がっているが、当時の調査団が残した課題は今でもある。

Yさんの体験も、まさに点字ブロックがバリアとなった。

視覚障害がある人のホームからの転落事故がいつまでたっても、なくならない。この事故は点字ブロックの問題というより、別な要素もあるが、場合によっては点字ブロックがバリアになりうる。ホームは視覚障害がある人に限らず、構造、音などの環境に危険が潜んでいる。通常なら、柵のない崖ぶちのようなところを何メーターも歩くなど考えられない。混雑したホームのヘリを人を除けながら、点字ブロックとヘリの数十センチの幅を、人によってはスマホを見ながら歩いている。ホームという特別な環境に慣れてしまっていて、リスク管理ができなくなっている。

たとえば視覚障害がある人が、点字ブロックを確認したうえ、ホームの端で入線してくる電車をまっているとしよう。自身が乗る電車が入ってきたと思って、乗ろうとすると電車のボディーを確認できない、つまり電車は入線していない場合がある。何故なら、乗ろうとする番線に入ってくる電車の走行音やブレーキ音よりも、その先の電車の音の方が大きく聞こえる。乗ろうとするホームに来る電車の音は、ホームの下に入ってしまい、籠ってしまう。勘違いしやすい。このことを理屈で分かっていても、慌てている時や考え事をしていた時は、とっさに動いてしまう。ロボットなら故障しない限り、他の情報も分析し、乗るべき車両が来たと判断できるだろう。残念ながら人は常に自分自身をコントロールできるわけでない。


多くの人にとって安全なホームドア

こうした、危険を回避するためには、ホームドアの設置だ。最近は、電車が走行しない深夜にホームドアを設置する技術がある。先日も予定より前倒ししてホームドアの設置がされるという、明るいニュースが流れた。これは、視覚障害がある人だけでなく、多くの人にとって安全をもたらすことで、喜ばしい。

今から26年程前のことだが、東京メトロ南北線が開通し、当初からホームドアが設置されていた。この直後、視覚障害がある人の歩行訓練を行う歩行訓練士の発案で、大手のアルミ関係の企業が、首都圏のある私鉄に、営業しながら可能なホームドアの設置を設計図まで作って提案したことがあった。しかし、当時は全く聞き入れてもらえなかったという。

この時、この私鉄が勇断を持って取り組んでいたら、もっと早く安心・安全な鉄道利用ができる世の中になっていたと思われる。

しかし、今は、駅のホームは、点字ブロックより安全な方法が普及しつつある。さらに、推進していってほしい。

また、一般の歩道などでも点字ブロックに代わる誘導方法を見い出し、あらゆる人が安心して、安全に活用できるユニバーサルデザインの街づくりを目指していかねばならない。
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