* * * とある、よもやま話から * * * <-使わせていただきました。(一部修正)
死にこだわりがないのと、無気力から生に対する興味を失うこととはは違うなあというのは思います。
直面した死すら心を乱さずに受け止めて受け流せれば、と思いますが、
心が若いうち、しかも身体が元気なうちからそう思うことは、生かされている意味を理解していませんし、
一言で「死にこだわり」がないといっても、いろんな心の状態があるので言葉にするのって難しいですね。
> 『「マタギ」(伝統的狩猟家)の先生が、「ヒツジかわいい」
> と「ジンギスカン美味しい」の間には、”殺”という行為があるのだぞ』
(、と言っていたという話を教えて頂きました。)
これって、深いですね。
自然の中で常に死と生と向き合って生きているマタギだから言える言葉なんでしょうね。
以前、ワナで捕まえたシカを時々いただいておいしいといって食べましたが、
シカをさばくのを「可哀想」と言った人には怒りを覚えました(笑)
美味しいといって、肉も魚も思う存分食べている人がいう言葉じゃないです。
子どもが言うのならわかります。
この場合の「可哀想」は無責任だし、獲物をとってさばいてくれる人に失礼です。
「殺」に向き合って受け止める必要があると思いました。
慣れるのではなく、死の意味や生きる意味に気付いて、そういうものであるというしくみを理解するのが大切なのかなあと。
> 人間(動物)の口に入るものは、塩と水以外はみんな生き物ですね。
> 生きながらえるために、他の生を奪って(命をつないで)いることを認識することは
>
> 大切なことですね。
まとめをありがとうございます!