色即是空 ~ 行く川の流れは絶えずして ~ 3

北の大地での生活

All things in the universe

<29.Jan 2012.Sun>

2012-01-29 | 日々徒然なるままに

深い深い闇の中で

重い空気の中で

臭気の立ち込める世界で

希望を失い

未来を失い

光を見失い

生気はなく


ひとりで立ち上がることができなくとも


信じるものが何一つなくとも


いつか


夜は明けるのだろうか

世界は変わるのだろうか

この地獄から抜け出せる日が来るのだろうか



明けぬ夜はないように



*** (補足)

こちらの「暗闇」は、想像で書いたものです。
歌舞伎町関連のニュースをふと見ていて、都会では信じられないような人の暗い部分があるなあ、改めてと思って。
自分とは関わりのない世界で良かったと思いますし、これから先もずっと関わりたくないし、
私の弱さでは太刀打ちできそうにない世界で、
反面、現実にそんな救いのないような絶望的(?)な立場におかれている子どもや青少年や
場合によっては大人なんかもいて、家出だとか、覚せい剤だとか、虐待だとか、援交だとか、
陰湿ないじめだとか・・・etc

人の暗闇って、はまると深いなあと思いましたし、
心に深い暗闇を持ってしまった人はどうやってそこから抜け出すんだろうとか、
きっと自分ひとりではもう抜け出せない人や魂がたくさんあるんじゃないだろうか、とか、思って、そう思うと
自分はなんだかんだいって恵まれた場所で、ちっちゃな問題に一喜一憂して、
なんかお気楽なことばかりいって申し訳ないなあと思って、書きました。

巷では、こうすれば人生ばら色になる系の本がたくさんあって、読んでいて楽しいし、良いことだと思うのですが、
いくら今の人生で頑張っても、救われないまま今生を終えなければならないような人もいるんだと思うし、
ほとんどが理解されないまま辛いだけの一生で終る人なんかもいると思うんですよね。
そんな人の気持ちをわからない自分が、ちっちゃなことで、何とかなるさ、なんていっても、
すごく失礼だし、おごりだし、無責任だし、
それは痛みを理解していない私だから上から目線で気楽に発言できるもんだと、思うんです。
本当に辛い人に、苦しんでいる人に声がかけられるか、どんな言葉を投げかけることができるか、なんて、
私にはとても無理なので、申し訳ないなあ、という気持ちから、想像して書いたものです。

最期の一行は、それでもどんなときにでも笑いという希望が人の心に差し込みますように、
という気持ちであとから付け加えたものです。
どんな絶望の中でも希望があってほしいです。

昔、よくわからなかった「パンドラの箱」の物語の意味は大人になってから理解できるようになったひとつです。


「希望」という言葉ですぐに思い出すことが3つあります。

グアテマラの貧困層の里親をしていた女性がいたたまれなくなって書いた手紙を読みました。
子どもは、あまりにも貧困の中にいると笑わないと書いていました。

つぎに、カンボジアやラオスやタイの田舎の子ども達が、貧しい中
親の真似をしてお金をちょうだいというのですが、
親に指示されるまでは子供同士で、屈託のない本当に素敵な笑顔を見せるのです。
食べるものと親の愛情に困らない子どもは心が豊かに育つのだなあと思いました。幸せそうでした。
ラオスの民俗の都合で近親婚が多く血縁が濃い間に子どもで、障害児がとても多く生まれてくる地域では、少し暗さを感じました。

3つ目は、ミャンマーと中国の国境の町で、完全に中国に実質上の支配を受けているのですが、
10代の若い女の子が、四川省あたりから出稼ぎにたくさん来ているのです。
お金持ちや観光客相手に日本円で3千円くらいで身体を売っています。
でも、暗さがないのです。ためしに友人が1人買った(契約?)んですよね。
もちろん話を聞くためだけですが、そしたらその子には暗さがないのです。
事件にまきこまれないよう、携帯を持たされていて、すぐにホテルの部屋から連絡しますし、
時間がたつと、携帯に電話がかかってきます。
自分はお金を稼いで、親や親族一同の面倒を見ている。
23~24歳頃まで働けるうちにはお金を稼いで、身体を売る事はちゃんとした仕事なんだと思っているようでした。
客引きも、若い数十人の女性たちと一緒にするので、ゲーム感覚もあるのかもしれません。

自分の物差しでみると、「可哀想」なことも、希望に支えられている人にとっては
それほど辛くないものなのかもしれないと思います。
気の持ちようで、幸福にも不幸にもなるんですね。
コメント
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