こどものころって、どうでもいいことが気になったりしませんか?
たとえば、童謡の『赤いくつ』。
そう言うと、異人さんをいい爺さんと間違った話かと思うでしょうが、私のツボはそこじゃないんですね(^_^;)
3番の歌詞かなぁ、“今では青い目になっているだろう”っていうのがあったと思うのですが、これが、保育園児だから5、6歳か、その頃の私にはすごーく気になる部分でした。
今になれば、幼くして外国に連れて行かれた少女は、すぐに日本のことを(そしてぼくのことを)忘れてしまい、その国の人になってしまうだろう、ということの詩的表現だと分かるのですが、その頃は、“外国に行ったら目が青くなるの……?”と真剣に思いました。
ちょっと理屈っぽい子どもだったから、“水とか、気候とか食べ物の関係……?”とか考えたりした。(陽に焼かれて肌や髪が褐色になることはあっても、眼の色は変わらないですよね^_^;)
小学校低学年になると、今度は『浜辺の歌』が気になりました。
“あした浜辺をさまよえば……”という部分です。
なんで、あした、さまようの?ということですよね。
でも、小学生ともなれば少し知恵がついてくるので、2番の、“ゆうべ浜辺をさまよえば”の部分も併せて考えました。
で、このふたつの言葉はたぶん、対比している。(もちろん当時は対比とかわからないけど、ここの部分がカギだとは思っていた)ゆうべ、はたぶん、昨日の夜のことではなく、夕方、あるいは深夜ではない夜、だと思うから、あした、はたぶん朝のことだ。
そこまで考えて、なぜか小学生の私は大人に確かめもせず心の中にしまっておいたのですが、小5くらいで今度は、『赤毛のアン』を読みまして。
あの作品のラスト近くで、ブラウニングだかテニスンだか忘れてしまいましたが、アンが詩を暗唱しますよね。
“ときは春、日はあした”という詩。
これで、“ああ、春は、とき、一年の中の一部分だ。だからあしたも、日、つまり一日の中の一部分。やはり、朝でいいんだ”、と思って嬉しくなりました。(合っているか微妙ですが。やはりこれも大人に訊いてみなかった)
いつもぼーっとしてるね、と言われて、じっさい八割方ぼーっとしてましたが、あとの二割はこんなことを日夜考えている、今から思えば不気味な子どもでした((+_+))
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