パリの滞在ホテルの階段に立つ芙美子
1931(昭和06) 28歳
11月23日 パリに到着、滞在したホテルの階段で撮った写真が上の写真
”初めの1週間はめちゃくちゃ眠ってしまった
2週目はめっちゃくっちゃに街を歩いた” 昨日はここまで書いた
今日は、めっちゃくっちゃに街を歩く芙美子を追いかけよう
引用元は「下駄で歩いたパリ」:婦人サロン1932(昭和07)年2月号掲載より
以下、””で囲んだ部分が私流超要約記述引用部分
”私の下宿はダンフェル街 東京でいえば下町で物が安い
薪ざっぽうみたいに長いパンがうまくて安く、齧りながら歩けて楽しい
毎朝そのパンを買いに行く 黒い塗下駄でぽくぽく歩くのでみんな顔見知り
イタリー人の食料品店ではマカロニをよく買う
イタリー語は日本語に似て母音が多い 初夏にはイタリーへ行ってみたい
鳥打帽の風琴弾きが時おりやって来る これは初めてのパリらしい風情
音が聞こえるとあちこちの家の窓が開く 色々な人種が見えて楽しい光景”
芙美子は、シネマを観たり、合間のレビューを見たり、じっとしていない
かと思えば、パリのどの階級がフランスを支えているのか、なんて考える
誰かが知識階級、といえば、「フン、百姓とエトランゼでしょ・・・」
そして誰かが訳してくれた詩を、自分なりにパリの流行り歌ふうにする
”たまげちや いけない気が弱い
若い男と泣かうより優しいお爺さんと笑ひませう
どうせ浮世は出たとこ勝負
たまげてゐてはマンマが食えぬ”
パリ凱旋門で 映りが悪いですが手前が芙美子 他は不詳
芙美子は、パリの街は華やかに荒み過ぎている、と少し日本を懐かしむ
下駄で街を歩き回るから、道の固さにも文句をつけたくなる
パリの日本人は、パリを悪くいうなというが、あんたたちフランス人か・・・
どうやら芙美子はそれほどパリが好きではなさそうだ
彼女はフランスの女性についても書く 芙美子の文章をそのまま引用する
”こっちのお婆さんを一人日本に連れて行って銀座を歩かせたら、
皆おばけだと云って笑うにちがいない。
頬紅が猿のようで、口唇は朱色、瞳をかこむ青いド ウランを引いて、
何の事はない油絵の道中だ。"
「油絵の道中」は、絵も描く芙美子ならではの卓抜な表現力
「おばけ」もそうだが 悪口ひとつ書くにも彼女の個性が光る
とはいえ 美しいものは美しい と素直に認めるのも芙美子
"どこの国も若い女はこよなく美しい
お化粧のめだたない、働いている女はとても水々しくていい
パリーの働いている女にどれだけの自覚があるのか
まだ日が浅くて判らないけれど
モンマルトルの下の新宿のよう街を歩いていた時
夜店を出している若い美しい女を見た
あんな可愛い女ならば、一寸飾ってカフェーに男を探せばいいのに
と思うくらい 一寸類なく良い娘で あっ た"
さて、女性の次は男性の話・・・ではなく下駄の話
パリの街を動き回るには洋装で靴の方が好都合だが芙美子はそうしなかった
何故? 芙美子の綴る話にヒントは?・・・無かった(読み飛ばしたか)
芙美子が自分で描く服装は (※) は注釈を追記
"二十五銭の塗り下駄に、紫のめいせん羽織、
新しいと云えば足袋と襦袢の襟だけで、大変粗末な風体だ
宮川美子さん(※1) とかが大変バタフライ(※2) を宣伝したのであろう
私を見てバタフライだと云って行く人も"
※1 宮川美子(オペラ歌手) 1899(明治32)-1995(平成7)
昭和6年パリ・オペラコミック座で「マダム・バタフライ」でデビュー
※2 バタフライ プッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」
宮川美子
また、下宿宿の掃除のお婆さんが芙美子に訊く
「お前は何時も足に板をぶらさげているが病気にならないか」と云う
で、私はジャジャと云う小犬(※下宿の飼犬) と走り競べをしてみせた
女中は腹を叩いて「小さい床が走っている」と云って笑った"
さて、今日は、恋愛放浪者でもあるパリの芙美子の話をするつもりでいた
が、明日に回そう
(音が鳴り出すまで20秒程かかるので、必要に応じて早送りを)
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]