真夜中のカップらーめん

作家・政治史研究家、瀧澤中の雑感、新刊情報など。

北京オリンピック閉会式

2008-08-24 23:19:39 | Weblog
いま、北京オリンピックの閉会式が行なわれている。
開会式同様、派手で、たしかに立派である。
マス・ゲームも、目を奪われる。

2つ、書いておきたい。

1つは、開会式で少数民族の衣裳を着ていたのが漢民族の人々だった問題。あまりにも露骨な演出に、怒りを通り越して笑ってしまった。

少数民族を支配する漢民族。

もしかしたら、演出を担当した人間は、中国共産党による少数民族弾圧を訴えるために、わざとこんな演出をしたのではないか、と勘繰ってしまう。

ちなみに、歌っている少女と実際の歌を歌った少女が違った「口パク」騒ぎは、単なる演出上の問題で、少数民族衣裳問題とはまったく次元が違う。この、違う次元の話を「同じくらいどうでもいい話」と捉えるところに、中国の病理がある。

2つ目。
この大会を、そして少数民族衣裳の問題を、当の少数民族の人々はどう見ていたのか。軟禁され監視状態に置かれていた中国民主化運動家たち同様、「興味がない」ということであったろうか。

私たち日本人は、金メダルを取った、取らなかったと騒いでいるが、この大会を、冷めた目で、怒りの目で、憎悪の目で眺めていた人々がいることを考えるべきではなかろうか。

日本のマスコミは大会期間中、何を恐れたのか、チベットをはじめとする少数民族弾圧問題にまったくと言ってよいほど触れなかった。特にテレビはひどかった。

どうして、記者会見や街中で、弾圧の事実についての質問をしないのか。
そんなことをすると、記者証を取り上げられるのか。
ならば、堂々と取り上げられればよいではないか。

世界中の記者たちが行動を共にすれば、北京オリンピックは、一体何が行なわれているのか報道されず、中国の国威発揚に手を貸すことも無かった。

ある中国人が、「外国の報道は偏っている」とインタビューで怒っていた。しかし、彼らが言うところの「外国の報道」とは、共産党支配下にある中国メディアが伝える外国の報道である。

さらに。
人間は間違った情報を教えられれば、正しい報道を「偏っている」と見るのだ。世界中のマスコミが北京に集まったこの機会に、何が正しいのか、中国人に知らしめるべきではなかったか。

それは報道の域を越えているかもしれない。
それでも、こんな夢想をつい考えてしまうのである。

私が、もし、チベット人だったら、と思うと・・・。

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