天上の神々の心にもこうした怒りが宿りうるものなのであろうか?
——ウェルギリウス「アエネーイス」第1巻第11行
なんじ逆境に屈せず、さらに勇敢に進むべし。
——同書第6巻95行
アオルノスへ下りゆかんこといと易し、プルートゥが門は夜も昼も開かれてあり。されどその歩みを返し、上界の大気に戻りきたらんこと、これぞ苦業、これぞ至難の業なり。
——同書第6巻第126行
この不幸なる男は、他のものを狙いし武器にうち倒され、天を仰ぎ、いまわの際に甘美なるアルゴスを思い出す。 ——同書第10巻第781行
プロローグ
わたしの名はナオミ。
かつては、深い海の底に住むマーメイドだった。今では、外見は人間と変わらない。両足の指が6本ずつあること以外・・・・・・
どのようないきさつから、わたしが人間界に暮らすようになったのかは定かではない。
アンデルセンの童話では、人魚姫は美しい声と引き換えに悪い魔女から尾ビレを足に変える毒薬をもらう。わたしは、なんとひきかえに人の姿になることをゆるされたのだろうか。
マーが「海」メイドが「女」を意味するように、マーメイドの仲間はすべて女だった気がする。海主ネプチュヌス宮殿の男たちは、すべて上半身は獅子、下半身が魚というマーライオンの姿をしていた。
だがマーメイドもマーライオンも真の姿だったのか、今では遠い昔に見た夢のようで確信がない。彼らは、霊体のような存在で、わたしには霊体こそすべての生物の本来の姿で、肉を持った姿は仮の存在のような気がしてならない。
人は海を「生命の源」と呼ぶが、海は同時にすべてが流れ着く墓場でもある。潮の流れに乗ってやってくる書物、工芸品、建築物、金銀財宝、写真、はては動物や人の死骸まで。いつもおばあ様と一緒だったことを覚えているが、たかだか百年ほどの命しか持たぬ人間には計り知れない知識を蓄えていたし占いで未来を見通せた。
人間界について思念を交わすと、きまって最後にこう言った。
(かわいそうな娘だよ。お前は、いつか人間界に出ていく星の下に生まれついている。だけど、どこへいってもやっかいごとに引き寄せられていく)
そう、わたしはトラブルに引き寄せられる星の下に生まれたマーメイド。
(それほんと?)ある日、わたしは伝えた。
その時、おばあ様が伝えてくれたことは、今でもはっきり憶えている数少ない記憶の一つだ。
(本当じゃとも。自分の運命がおそろしいかえ?)
(ちっとも)
(ほう、どうしてだね?)
(だってナオミがやっかいごとに引き寄せられていくんでしょ。それなら、困っているみんなを助けてあげるの)
(やさしい娘だね、ナオミは。せめてお前がどこへ行っても、教え導くものと助けてくれる仲間に恵まれるように魔法をかけてあげよう。覚えておいで。もしお前が人間界で暮らすことになって、あいつらが五本しか指がないと知っても、六本目を切ってしまおうなんて考えないことだよ。これはあぶない目に遭った時助けてくれる、幸運の指なんだ)
わたしには、昔に人間界に飛び出していったお姉様がいた。
最初はピンナップガールとしてもてはやされたが、六本目の指を切り落としてからは、不幸な女優として一生を送った、と聞かされた。
おばあ様のおかげで、人間界に来てから、教え導く存在と仲間には不自由したことがない。でもそこまでしてくれたのなら、なぜ愛し合う人にも不自由しないようにしてくれなかったのか。
肉体を持ってからは人並みに年を取るようになったが、わたしがそれまで生きてきた歳月を正確に記すことは難しい。海の底では、時の経つのがこの世界とは比較にならぬほどゆっくりだからだ。日本という国には浦島太郎という昔話があるそうだが、人間の六十年ほどがマーメイドの一年にあたるらしい。
マーメイドの頃のことはつまらないことを憶えているかと思えば、肝心なことはなにも思い出せなかったりする。過去の記憶が突然よみがえってくることもあるが・・・・・
わたしたちはいかにして生まれ、どこに海主ネプチュヌスの城があったのか。わたしたちは海の底で何のために生きていたのか?
こうした疑問にも、記憶が戻れば、いつかお話ししてみたい。万が一、そうしたことがあればの話だが。
これからわたしが人間界で経験した物語のうちのいくつかを、皆さんにお話したい。
さあ、今宵の物語を始めよう。
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