古代からさまざまな民族が入り込んできた東欧南部に位置するバルカン半島。
カトリック文化圏の中央ヨーロッパ、ギリシア正教圏の東ローマ帝国、イスラム圏のオスマン・トルコ帝国の三勢力が、十五世紀にぶつかり合っていた。
ここは覇権を争う勢力側から見れば戦略上の重要拠点。同時に、侵略者から見れば喉元から手が出るほど確保したい通り道であった。
だが、狙われる側の住民たちから見ればつかの間の安息の時さえない「この世の地獄」だった。民族や国境を越えて人を救うべき宗教が、現世に苦しみを生みだすことに一役買うとはまさに歴史の皮肉であった。
暴虐の限りを尽くし、悪魔公と呼ばれたヴラド二世ドラクールは、一四三一年、東ローマ帝国から爵位を受けトランシルバニアのワラキア地方の正式な支配者になった。同年、彼の長男として生まれたヴラド・ツェペシュは一三歳から一七歳までの五年間、後に美男公と呼ばれるようになる弟ラドウ三世と共にトルコ軍に人質として幽閉されて過ごした。
その間に、その後の彼の人生を決定する出会いを経験した。
人質となって二年目の一四四五年二月のある日。
牢番の兵士が、気安く声をかける。
「坊主。腹は減ってないか?」
「己のような下級兵士に坊主呼ばわりされる憶えはないわ」
気丈に答えた彼であったが、育ち盛りの身体は昼に出されたパンと水だけでは腹の皮が背中にくっついてしまいそうだった。
人のよさそうな牢番が言った。
「そう言うな、王子よ。かかあの作った菓子だが、話の種に食ってみぬか?」
「そこまで言うなら味見をしてやってもいいぞ」
「おお。いつかお主がワラキアに帰った時、トルコの農婦はうまい菓子を作ると伝えてくれよ」
「まずは食ってからじゃ」
思わずうまいと言いそうになったヴラドだが、まあまあいけるな、と憎まれ口をたたく。トルコ軍のイスラム化教育や武芸の稽古には反感がつのるだけだったが、牢番の親切を受けていると将来この国と一戦交えた時に非情に徹して戦えぬのではないかとつい心配してしまう。
だが病弱な兄ミルチャが頼りにならない以上、いざという時には先頭に立って民のために戦わねばならぬと考えるヴラドであった。一口菓子を食べると腹が減っているにもかかわらず、弟のラドウにお前が食べろと渡してしまう。
牢番は、このプライドの高いワシ鼻に分厚い唇をした若者と恥じらいを持った少女のような美しい顔立ちの弟に同情の念を禁じ得なかった。実は、彼にも同年輩の息子がいたが一年前に病気で亡くしていた。
本来ならこの王子たちも家来にかしずかれているか恋に夢中になっているはずがと思う。しかし、日に日にふさぎ込んでいく弟と比べて、兄の方は戦場で腕を振るい続ける若武者のごとく生き生きとしているのはいかなるわけか、と考える牢番だった。
彼らが閉じこめられた城はオスマン・トルコ領内のさびれたアジアの都市エグリゴズにあった。ワラキア公国の将来の皇位継承者を人質としているだけあって厳重な警備体制が敷かれている。
城には最近、幽霊が出るとの噂があった。幽霊が霧と共に現れると立っていられないほどの眠気に襲われて、後は何もわからなくなってしまうと恐れられていた。
その夜のこと。
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