一九七三年九月四日。
ハワイ島最南端カ・ラエ岬の北ナアレスの町からはあきれるほど澄みきった海が見えていた。昨夜、五十数年ぶりという季節はずれの大型ハリケーンが過ぎ去った波打ち際には椰子の葉や海草や木ぎれ、どこから流れ着いたのかアイリッシュ・ウイスキーの空き瓶が散乱している。
朝日が顔を出し始めた海岸線をランニングシューズとすり切れたスエットスーツに身を包んで一人の男が黙々とジョギングしていく。シナモンドーナツのように盛り上がった筋肉と張りつめた雰囲気はタイトルマッチを控えたボクサーにも見えるが、フードに隠れて表情までははっきりしない。
彼の名はケネス・J・アプリオール。
十九歳でベトナム戦争に従軍後、名誉除隊をして今では補助役についている。
父親が母の胎内にいる内に飲酒運転で死んだため年収1万ドル以下という極貧家庭で少年時代を過ごした。もっともろくでなしが生きていたとしても状況が改善していたとは考えにくいが。
母マリアに負担をかけたくないためケネスはロサンゼルスのハイスクールを卒業後、海軍に入ったが任務の名残で右肩胛骨と左膝のおさらには代替プラスチックが入っている。
元来、社交性に欠けるところがあったが軍事訓練を経験してからはますます人付き合いがますます苦手になったようだ。二年前にハワイにやってきてからは巡回プロダイバーとして生計を立てていた。
昨日は昔を想い出し眠れぬ夜を過ごしたが朝の日課が変わることはない。彼は一人きりになれるこの時間帯が好きだったし、ジョギングの度に船乗りだった祖父から聞いた言葉を思い出した。
「海は一日7回、その色を変える」
明けの黄金色に輝く海は海洋神ネプチュヌスの支配の始まりの刻
真っ青な昼の海は太陽神アポロンが空を駆けめぐる刻
波しぶきに輝く白色の海は天かける最高神ユピテルの輝きの刻
夕焼けに映える真紅の海は軍神ベローナの勝利の雄叫びの刻
月の光に映える灰銀色の海は無慈悲な月の女神アルテミスの涙の刻
漆黒の闇を写す黒色の海は冥王プルートゥの支配の始まり
そして、何ものにも汚されていない
半透明な緑色の海にだけマーメイドは姿を見せる
おや、何か浮かんでいるぞ、と気づいた時だ。
何かが破裂したような音を立てて竜巻が数メートルも立ち上がると、あたかも意志を持っているかのようにケネスの方に近寄ってきた。さっきまで見えていた太陽がたちまちのうちに消えて巨大な入道雲が湧き上がった。
ケネスの交感神経がとぎすまされ鳥肌立つ。
叫び声が上がって上半身は馬、下半身は魚という海馬が顔をのぞかせる。その背上で緑色の衣をまとい真珠の冠をかぶった海主ネプチュヌスがたてがみをなびかせていた。背後には鎧甲に身を固めたマーライオンを従えている。
まさか、とケネスが思った瞬間。
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