強風の日があって、慌てて風除けをしました。
枝豆の芽が草マルチを押し上げて出てきた。
よく見ると一つだけ大きな実が。
母が選んだ花を植えました。
社会は一人一人の個人から成り立つ。個人が変わることで社会は変えられるはず。
太平洋戦争に負けてズタズタのボロボロになり、そこから日本社会は大きく変わったように見えたけれど、習慣のエネルギーは大きく、人間(日本人の)本質はほとんど変わってはいなかったようです。
福島原発事故も(大きな衝撃ではあったが)、当事者としての危機感が今一つ不足していたように見える。(東日本の人も危機意識が低い人は低い。嫌なことは忘れたいし見たくない気持ちもわかるけれど)
なかなか学べないねえ
この世は苦。生きている限り苦はなくならない。
では何か問題が起こったときに、苦しみをどう乗り越えて生きていくか。
よりよい社会、暮らしやすい社会にするには、どこをどう改めていけばいいのか。
現実をありのままに見つめ、理性的に対処していく。
今が、自己反省し改めていくチャンスなんだと思う。
以下、覚書。
社会は一人では成り立たない。助け合い補い合うチームである。
プロ、専門家とは成果を出す人。CDCがない日本は感染症対策のプロがいない状態。なのでなかなか結果が出せない。
(クルーズ船に入ったDPATは精神科の専門家。FETPは現状把握のプロで、治療や防御の専門家ではない)
目的が大事。前例や形式などの”習慣”や”常識”は必要ない。(特に官僚は前例にこだわりやすい)
「知っていること」と「できること」は意味が違う。練習が必要。
資源を有効に使う。一番大事なことは「人を失わない」こと
危機管理の時には絶対に頑張って疲労をためてはいけない。危機管理の時こそ、余裕を持っていないといけない。(目的に)必要のない仕事は全部やめるべき。
自分で判断して自分で動けないといけない。自分の動きがチーム全体のためになっているか、という観点を持っているか。
やみくもに頑張る、周りに同調するのではなく、目的を達成するために必要なことをやる。
自分たちが作った「神話」にすがってはいけない。
(形式主義の官僚。大事なのは形式ではなく、本質、事実、目的、結果)
「自分たちはちゃんとできている」という話(神話)にもっていってはいけない。
「自分たちは間違っているかもな」という前提で。失敗を認めて、繰り返さないために何ができるかを反省することが大事。(水際作戦は成功してない。そもそも無理な話)
コミュニケーションで大事なことは、事実をちゃんと公表すること。
情報公開と透明性が何より大事。
ちゃんとできてないときは「ちゃんとできてない」と言うべき。
(東大話法、ご飯論法使わないで)
ミスの当事者を責めない事。「システムの問題」として見る。
ヒトではなく、コトが問題。仕組みそのものの問題。トカゲのしっぽ切りをしない。
素人が素人であることを責めるべきではない。(みんな素人なんだなあ)
いざというときのために余裕を持たせておく。人員も。
「遊んでいるアリがいる社会」こそが、じつは正しい社会。
みんなが余裕を持って働ける構造をもつこと。
「もっと休まなきゃダメ」
休養を取って、睡眠をとって、精神的に健全な状態でなければまともに働けない。
多様性を認める。みんなが同じであるという幻想を捨てる。
みんなが違っていることを認めて、初めて全員が楽になれる。
同調圧力が極まると、全体主義に行き着く。危険。
多様な意見があることそのものは、絶対に否定してはいけない。
議論に対しては議論で対応するべき。
安心を求めてはいけない。求めるべきは安全だけ。
不安に思うべきところは、不安なままでいい。安心したらより危険になる。
勇気とは、事実を直視できること。蛮行ではない。
私たちはもっと間違いに寛容であるべき。
自分の間違いをすぐに認めて前言撤回できる、朝令暮改できることが大事。
自分に関係のないことはほっとく。
理解のスピードの速い遅いは知性と関係ない。
(学習指導要領、カリキュラムに縛られて、時間をかけられないから落ちこぼれる)
ゆっくりものを考える、一生懸命考える。考え続ける。時間をかければいい。
「優劣を付ける道具」ではない知性をもっと尊重しよう。
よりよい社会にしたい。
学習しよう。意識を変えていこう。
心配しない。
心配なんかしても、意味がないんだよ。
「未来は未だ来ぬもの」
心配してないで、「今、ここ」で出来ることを精一杯することだよ。
「今、ここ」での心や行為の結果が未来にやってくるんだよ。
「今、ここ」に集中すること。心を清らかにすること。
心は明るく清らかでないと、いい智慧は浮かんでこないよ。
それは、自分のためでもあるし、自分と関わる人たちのためでもある。
自分がやるべきことは何か。それは心を磨くこと。
心配や不安や自分の思い通りにならないことへの怒りなどの、妄想を止めること。
現実をあるがままに受け入れる心の広さ、
優しさや温かさなどの心を育てること。
他人が幸せか不幸かなんて、自分には決められません。
勝手に、他人を不幸だなどと決めつけないこと。
思いやりとは、他人の心や感覚を感じられる力です。
心配とは、まだ来ない未来を考えて暗くなることです。暗い考えを頭の中でぐるぐる廻らすことです。暗い考えは、暗い結果を生んでしまいます。気をつけよう。
とはいえ、心配してしまうものですよね。だって人間だもの。
心配してしまってるな、どうしようもないこと考えてるな、と気づくだけでいい。そうすればそのうち、自然と冷静になります。
生老病死。すべての生命は生老病死を繰り返す。
身体というものは、本当にどうしようもなくめんどくさいものだ。
人間の寿命は短い。もっと短い生命もいる。
愛別離苦。愛する者との別れを繰り返す。
誰でも死んでいく。別れたくなくても別れなければならない日が、必ずやってくる。
生きるということは、そういうものだ。どうしようもない。
どうしようもないことは受け入れるしかない。
でも、
今、生きている。今、まだ元気だ。
生きているこの瞬間を苦しむことはない。誰一人として。
生きている一日一日、一瞬一瞬を大事にしよう。
今できるベストをつくそう。
先のことをくよくよ考えて、心配かけないようにしよう。
生きている限り、死のその瞬間まで、嬉しい、楽しい、気持ちいい、幸せだと感じるられるようにしてあげよう。
穏やかに過ごせるようにしてあげよう。
「虹の橋」に旅立つその瞬間まで。明るく、穏やかに、苦しむことなく、、。
この世で幸せなら次世も幸せになる。いつか、また天界で出会えるかもしれない。もし、虹の橋で待っててくれてるなら(待たなくていいよ)一緒に行けるように、私もしっかり生きよう。
ピコちゃんも、次世で幸せに暮らしてるといいな。待ってなくていいからね、先に幸せになっててね。(もし、人間のつもりで幸せに生きてたら、次は人間に生まれるかな?人間に生まれて、心を清らかにする修行を続ければ、いつかは一切の苦しみのない涅槃に至ることも可能だよね。)
病気で苦しんでいる人たちが、安穏で、幸福でありますように。
痛み、苦しみ、落ち込み、失望、不安、恐怖がなくなりますように。
慈しみで包まれますように。
心と身体が慈しみで満たされますように。
次世が苦しみのないところでありますように・・・。
>運転がまるっきりできない人が、高級車のポルシェを買ったとしましょう。買って、店の人が家まで車を運転してあげてガレージに入れてくれる。・・・・これで意味がある?それで誰かが、「あなた運転を習いなさい」と運転免許を取らせてあげて、やっとポルシェの価値が出てくるのです。
>私たちもポルシェどころではない、何千倍も価値のある大脳を持っているのです。皆、大変な価値のある大脳を持っているのに使えないのです。免許証をもっていないようなものです。それでは、宝の持ち腐れになります。
>大脳を自由に使える能力さえあれば、人間は幸福になれます。むやみに欲張ったり、他人と戦ったりすることなく居られます。
原始脳に支配されたまま、原始脳の奴隷のように大脳を使っていては大脳の価値がありませんね。運転が下手くそ(原始脳に操られている)だと、事故を起こしてしまう。
瞑想(こころのトレーニング)で大脳の可能性が大きく広がる(原始脳から自由になる)ということですね。分かると自由になる。穏やかな心でいられる。苦が苦でなく、楽になる。
>原始脳は細胞の維持管理をするという、自分の本来の仕事だけをするのです。大脳は事実に基づいて、なんのバイアスもなく、正しい判断を下します。
>まじめに瞑想すれば、だいたい2,3週間で達することができます。コツコツやったとしても、一ヶ月、二ヶ月続けると、人格はそれなりに変わっています。ブッダの瞑想では、100%の確実性で結果が出るのです。
試してみる価値があると思います。少なくとも全く損はしないと思います。仏教の本を読んで、普通に歩くだけでも瞑想になると思います。(もう、みんなやってるかな?)
よくないことも「わかっちゃいるけど、やめられない」が、「わかったからやめられる」になると思います。やめると楽~
>こころは放っておくと堕落する
信仰も迷信もない、科学的で論理的な、現実的な実践方法です。誰でもできる、こころを育てるトレーニング。たまには”筋トレ”も必要だけど、歩く瞑想(ウォーキング)で”心トレ”も大事。歩く瞑想は体と心、一石二鳥だね。
またやろう。座る瞑想もね・・・。
(「なんのために瞑想するのか?」アルボムッレ・スマナサーラ著を読んで)
よい本(kindle)でした。こういう本を読む度に気づきがあり反省でき、こころが晴れて元気が出ます。
人間(すべての生命)は「こころ」と「体」でできています。体はただの物質。机やパソコンと同じ。「こころのエネルギー」がなければ生命にはなりません。
体はただの物質で、臓器が物質であると同じように、脳も臓器で物質。ただ変化する(動く、反応)だけ。「こころのエネルギー」があって、こころがはたらいて生命なのです。(電気信号は「こころ」ではない)
(こころとは知覚機能。思考や感情だけではない。こころはすべての生きた臓器、細胞にあるといえます。脳=こころ、なわけでもない。自我は錯覚?思い込み?なので別問題。)
>脳細胞がなくても、しっかりと生きている生命はいます。しかし、身体の細胞の数が増えていくと、細胞が組織化されるのです。それを管理する細胞組織が必要になります。ですから、身体が大量の細胞でできている生命の場合は、脳が現れてくるのです。それは原始脳と言われるものです。
>原始脳の仕事は、様々な細胞組織を管理して命をつなぐことです。思考能力がなくても、この作業はできます。
>ゾウさんたちと違って、(大脳が発達しているということは)われわれは激しく思考しないと生き続けることができないのです。
>大脳は原始脳の指令で働いています。大脳が発達していると言ったところで、人間も他の生命と同じく、「いかに生き延びられるか?」ということしか考えていません。大脳の能力をすべて、生き延びる目的で使っているのです。(悟りに達した人以外?)
>脳がない生命も、脳がある生命も、結局は自分の寿命として許される範囲で生きて死ぬだけです。大脳を活発に使っているからと言って、人間に他の生命より優れていると自慢することはできません。人間の大脳は原始脳の指令に縛られているので、開発不可能な状態に陥っているのです。(学び修行している人以外?)
大脳の働きは、完全無知な感情だけで働く原始脳の指令で行われている。だから、大脳が原始脳からの支配から少しでも解放されるように、トレーニング(修行)する必要があるのです。その方法もある。
原始脳の「存在欲と怯えと無知の感情」の”奴隷”になることで生まれる「人間の苦しみ」をなくすためのこころのトレーニングが瞑想(ありのまま見る実践訓練)だというわけですね。
(「なんのために瞑想するのか?」アルボムッレ・スマナサーラ著を読んで)
出家者ではなく、ふつうの在家の仏教徒が守る「五戒」があります。
1.殺生しない、2.与えられてないものを取らない、3.邪な行為をしない、4.偽りを語らない、5.酒や麻薬などの理性をなくすものを飲まない
これをしっかり守るだけで、かなり平和に、安心安全に暮らすことができます。当たり前のように思えますが、実際、例外なく、完璧守るのはなかなか難しいと思います。
1.いかなる生命も、いかなる場合も殺生しないって難しいでしょう?
2.与えられてないものは糸1本でも勝手に自分の物にしたらあかん。怠けの給料泥棒もあかん。
3.邪な行為というのは例えば浮気行為。大変です、家庭崩壊ですよ。
4.分からないことは分からないと正直に言いましょう。お世辞ではなく本心から褒めよう(差別的な見方をなくして心を磨こう)。言えと言われても言えないことなら言えないと正直に言いましょう。または、口を閉じておくこと。さらに、言いにくいことでも言わなくちゃいけないなら、上手に言えるように賢くなろう。口は災いの元。
5.は簡単。でも飲酒が習慣になってる人は大変かな。
でも、しなけりゃいいんだから、案外やりやすい?
言葉については、五戒の中には「偽り」だけ入ってますが、他にも気をつけないといけないことがあります。
「諸仏の教え」(前の記事)の中に「悪行為・悪(パーパ)」という言葉が出て来ますが、具体的に「十悪」と言われるものがあります。
殺生、盗み、邪な行為、偽り、無駄話、悪口(粗悪語)、二枚舌(仲違いさせるような言葉)、貪欲(異常な欲)、瞋恚(異常な怒り)、邪見
です。
で、時々、このブログ、「無駄話」になってはいないだろうかと思ったりするわけです。
無駄話が、なぜよくないかというと、人の貴重な時間を奪ってしまうことになるからです。役に立つ話ならいいんです。無駄になるのがよくない。自分の心の成長にも役に立ち、人の貴重な時間を無駄にしない役に立つ内容になってるか?
う~ん、このブログ、役に立ってるんだろうか?
無駄話にならないように、気をつけようと思います。
・・・これ、役に立った?^^;
「沙門果経」という、”出家者(沙門)にはどんな果報(よいこと・利益)があるのか、(経済活動をしない)出家になんの意味があるのかという問いにお釈迦様が答えられた話(教え)”があるのですが、出家者でない俗世間の私たちにもとても参考になり、役に立つと思います。出家者ってすごい。
同じ地球の家族なのに、仲よく助け合って生きればいいのになあ~
なんで、敵を作りたがるかなあ~
お前が悪いんだからお前がなんとかしろ、ワシの言うことを聞け、しか言わない。他に智恵はないのね?
どっちも。やってることは同じ。
自己中心にしか考えられないと、人にも、地球にも迷惑な存在になってしまう。
どっちも。
困ったことがあれば、助け合えばいいだけじゃん。
賢くないし、いい智恵がうかばない。それは分かってる。
(だって人間だもの…)
智恵というのは、絶対的な慈しみ(=理性)。例外(←自己中)のない慈しみ。
(いかなるときも暴力など害することを正当化しない)
難しいことは、一緒に(互いの平和のために)知恵を出し合えばいいし、自分にできる(得意なこと)ことを分担し合えばいい。どっちもが自己中(自分を守るというエゴ)になるから、ケンカになる。
相手が困ること(圧力?挑発?どっちも同じ。脅し)をして、(理性的でない人が)反撃したくなる口実を与えて、、、なにやってんだろ。
どっちも。
これぞ、人間の本能。理性がなくなって本能で生きるとこうなってくる。
しゃあないな~^^;
人間やめて(乗り越えて)、平安に暮らしたいものです。
まあ、理性的に、自分の人生をしっかり生きるだけですな・・・
自分の(身口意による)行為には必ず結果が自分に返ってきます。自業は自得です。すべては因果法則で成り立っている。
自分がやったことは自分が責任をとるしかない。
豊洲の問題にしても何にしても、自分が行った行為一つ一つに責任がある。土を採取した、調べた、話した、認めた、はんこを押した、押してもいいと許可したetc…、それぞれに責任がある。役人は役人としての、知事は知事としての責任もある。もちろん都民は都民としての責任はある(知事を選び、たとえ意に反しようが行為として彼に知事をまかせたという事実に対する責任はある)。
それぞれの責任の大きさは、それぞれの行為の大きさ・重さによって違うけどね。
だから、この問題の責任はそれぞれ関わった人みんながそれぞれの責任分を受け取ればいい。どの程度関わったかによって。(民主主義の国というなら特にね)
みんながそれぞれの責任をきちんと引き受けるしかない。(自分の責任をなかったことにしようとしたり、人になすくろうとしちゃいかんねえ。そうすることがまた、自業自得として返ってくる)
でも、もっと大事なことは、今現在の状況をありのままに調べて今できる精一杯の能力で、よりよく前に進むこと。過去の経験も一つのデータ。これからどうするか(今どうするか)、ですね。
どんな問題でもそうだよなあ・・・
いかなる生命であろうともことごとく、
動き回っているものでも、動き回らないものでも、
長いものでも、大きなものでも、
中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、
見たことがあるものもないものも、
遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
既に生まれているものも、(卵など、これから)生まれようとしているものも、
生きとし生けるものが幸せでありますように。
(慈経より)
死は日常の中にあります。いつでも、どこでも。
この世は有限です。
現実は、数字ではなく目の前にあります。
ありのままの現実(事実)を隠さず、目を背けず、曇りのない目でしっかり見つめることです。
人間は余計なこと(寿命を縮めるような危険なこと)をしないこと。
人間は万能ではありません。無知を自覚することです。助け合わなければ生きていけません。
寿命いっぱい無駄にせず、おだやかに充実して暮らせますように。
一人一人が自分の人生をしっかり生ききれますように。
常にいつでも、(人間界のこの世だけでなく)すべての生きとし生けるものに対して慈しみの心を育て、善行為(愛語、布施、供養等)の功徳を廻向していきたいと思います。