人間の世界、日本社会を見てると、あ~あ、、、て感じ。
でも、人間であり社会をつくっている私たち大人が、
責任を放棄するわけにはいかない。
若い人たち、子どもたちのためだけではないのです。
自分のためでもあるのです。
死ねば終わりではない。死は生。死んでも生まれる。
輪廻して、また生まれた社会が暗黒社会なのは困るのです。
山本七平「空気の研究」を読んで記録してませんでした。
日本社会に根強く残る「空気」。
すぐに「空気」をつくり「空気」に支配され、流されてしまう日本人。
このすごいエネルギーをもつ「空気」や「同調圧力」に押し流されないために、自己を高める必要があります。
そして、できる範囲で「水を差す」。
お釈迦様は言われてないと思うけど、流されないためにも必要なことかもしれません。
21 つとめ励むのは不死の境地である。
怠りなまけるのは死の境涯である。
つとめ励む人々は死ぬことがない。
怠りなまける人は、死者のごとくである。
25 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、
自制・克己によって、
激流もおし流すことのできない島をつくれ。
(ダンマパダ 中村元訳)
槇原敬之さんの逮捕ですが、2年前に所持してたという事件なんですか?
それを”今のタイミング”で逮捕?
本人曰く、長い間使ってないから反応はでないと思うって、実際、簡易?検査の反応が陰性だったとか?
まあ、所持も法律で認められてない違法行為。
けれど、依存症であるなら、それは治療すべき「病気」だし。
それを、極悪人のように「○○容疑者」という呼び方で一斉に報道するマスメディア。
普通に「〇〇さん」でいいやん。まだ容疑の段階だし。(偉そうにね…)
そして、それにすぐ反応し彼の素晴らしい楽曲を使用中止する。
わが日本ながら、情けない状態ですな。私たちは変わらなければ、、、
まあ、猫だまし(目の前でパチンって)くらいの効果はありましたか??
何でしょうねえ。
さて、それはさておき、
落ち着くことで洞察を深め、智慧と慈悲の目で何事もよく見なければ、
煩悩(怒り、怖れ、妬み、欲、エゴ、無智…)の激流に流され、溺れてしまいます。
今、再読している ティク・ナット・ハン禅師の「怖れ」。
読むだけで心が落ち着きます。読む薬です。(音読が効果的)
そして、
意識的(マインドフル)な呼吸と意識的な歩行(呼吸瞑想、歩行禅)の簡単な実践。
多くの気づきがあります。
イノベーションです。
お陰様で、動悸も不整脈もよくなりました
皆さんも、よかったら一読をどうぞ
(2つ目の記事です)
安冨歩さんは、自分が選挙に当選するためや票が欲しくて選挙に出るのではないのだと思います(そんな感じのことを言われてました)。
だから、真理(真実)しか語りません。自由です。
選挙を楽しもう。そして、もっと安冨さんの声を、話を聴こう。
聴きに行くのは難しいけど、今はYouTubeがあります。ありがたい。
心の自由を大切にしよう
暴走するシステムを止めよう
暴力、抑圧をやめよう
自分で判断しましょう
今年の参議院選挙でこの方を知りました。それ以来、YouTubeで、馬と音楽の選挙活動の様子や、「国家てんぷくトリオ」の楽しい音楽活動などを観ています。その中でされるお話(やおしゃべり?)に感銘をうけながら。
面白い。でも深い。最後の方では動画と一緒に空き缶叩いて演奏?を楽しんでたり。私も、「純セレブ騎士団」に入りたい、というかもう一員かな。(色んな名前つけて楽しんでますね。自由だなあ
)
ものすごく賢い人だと思います。心の美しい人だと思います。
共感します。
今の「国家」というシステムの中で苦しんでいる人がたくさんいるんじゃないかな。もっと、自由に、気楽に、楽しく人と人が互いにコミュニケーションできる社会になればいなあ。言葉(定型文)より、自由な音楽。音楽はいいねえ。心を解放してくれる。
人間だけでなく、馬も猫も犬も地球に住む生き物が争わず、なかよく幸せに暮らせる社会をつくりたいなあ。
こんな選挙活動初めて見ました。というか、これが本当の選挙。聞き入ってしまう。みんなもっと選挙を楽しんだ方がいい。(東松山市長選ではチンドン屋さんと一緒にされてました。むっちゃ楽しい。ミンミンがなり立てる演説はうるさいだけ)
もっと自由になろう。人生を楽しもう。
子どもを守ろう
今までスマナサーラ長老の本で教えてもらった言葉を使っていましたが、瞑想に使う言葉は色々バリエーションがあって、最近読んでるグナラタナ長老の本にあった言葉もいいなあと思います。
スマナサーラ長老のはとてもシンプルで覚えやすい。グナラタナ長老のは具体的でわかりやすい。6パターンほど紹介してくださってますが、自分に合った言葉を使えばいいんだと思います。どれもいいです。
いつでもどこでも(すべての生命が)「幸せでありますように」「幸福で、穏やかで、健康でありますように」^^
まず、自身への慈悲喜捨、そして、慈悲の心を分かち合う親しい人、生きとし生けるすべての人、生命へと広げていくのは同じ。
「私が」「私の父母が」「私の先生たちが」「私の親戚たちが」「私の友人たちが」「私の知らない人びとが」「私の嫌いな人、私を嫌っている人びとが」「生きとし生けるものが」と、対象を広げていきます。全部繰り返すとけっこうな瞑想になります。
今日は特に、私の友人たちへ慈悲の心を・・・。
>私の友人たちが、
健康で、幸福で、安穏でありますように。
危害がありませんように。
願い事が叶えられますように。
人生で避けることのできない困難や問題、失敗に出あったとき、
忍耐、勇気、理解、決意をもって、乗り越えられますように。
道徳、誠実、ゆるし、あわれみ、気づき、智慧をもって、
克服できますように。
(「マインドフルネスを越えて 集中と気づきの正しい実践」バンテ・H・グナラタナ著 出村佳子訳より)
しっかり慈悲の心を育てて、みんなと分かち合えるようになりたいと思います。
ワタシ、三日坊主です。朝5時起き、二日で終わってしまった・・・(二日坊主?)。
いや、まだ終わったわけではない
また、始めればいい。
三日坊主を2回やれば、6日やったことになるのです。3回やれば9日。
ず~と、休み休みでも三日坊主を続けていけばいいだけさッ。
「三年峠」さ。
(三年峠でころんだならば、三年きりしか生きられぬ。ああ、転んじゃった・・・・・けれど、一回転べば三年生きられるということ。2回転べば6年で、何度も何度も転べばいっぱい生きられるよ。暗くならないで、でも気をつけて通りましょうね、という昔話)
325 大食らいをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って迷いの生存をつづける。
327 つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せー泥沼に落ち込んだ象のように (「ブッダの真理の言葉」中村元訳)
やる気出た
プラユキ・ナラテボーさんは、タイのお坊さんですが日本人です。1962年生まれで、上智大学文学部哲学科卒業してタイの開発僧の研究をし、自分も出家されました。タイ・スカトー寺副住職。とってもあたたかくてやさしいお人柄。しっかり仏教を実践されているのがわかります。私もこんな人になれたらいいなあ
【タイ・バンコクから北東へ三五〇km。奥深い森の寺で出家した日本人僧のもとを今なぜか、訪れる日本人が増えている。ある人は心を病み、ある人は人生に行き詰まり、救いと癒しを求めて、遠路いとわず訪ね行く。ブッダの叡智と慈悲心を受け継ぐ僧による“現代の対機説法”。仏教のやさしさにつつまれる本。】
この本は今はkindleでしか購入できませんが、とってもよい本でした。教員やカウンセラーにも超オススメ。お説教でないし、説法、法話だけどネイティブの日本人だけあって親しみやすい文章でとても読みやすい。読んで心がやさしくなります。
プラユキさんの勧める気づきの瞑想のやり方(手動瞑想)は、スマナサーラ長老のやり方と違ってラベリング(言葉)を使いません。とても気楽にできて、瞑想初心者やなかなか瞑想がうまくできないという人はやりやすくていいと思います。常に、「今ここ」に気づいていることの繰り返しトレーニングによって、無意識に陥っている心のよくない癖を直し、心も頭もすっきりクリーンになっていくのです。今ここの現実を、まずはあるがまま受け止める、あるがままに見る、常に気づいている・・・すべての基本。とても大事なことですね。
ていねいに説明してくれてますが、
こっちの方がわかりやすいかな?これを繰り返すだけ。
野球のサインみたいで簡単でしょ?しかも、いつでも気楽にできます。おしゃべりしながらでもね。
しばらくこっちをメインにやってみようと思います。歩く瞑想も「一歩、気づく、一歩、気づく、…」といった感じでやればいいそうなので、日常の中で気楽にやっていきます。
星5つ
【どんなことがあっても、いまここを楽しんでしまえる仏教的な生き方。仏教を学ぶのは、年齢は関係ない。いつでも、学ぶことができる。それこそ、死の間際でも学ぶことができる。なぜなら、仏教を学ぶとは、「生き方」を学ぶことだから。それこそが正真正銘の仏教。】
仏道、お釈迦様の教えは実践(トレーニング)するものなんですけど、これから仏教を学んでみたい、興味はあるんだけど・・・という人にぴったりの本かも知れません。まずは、どんなものか読んで理解してみる。
「これから、仏教塾を開講いたします」という文から始まります。
仏教初心者?の塾生の質問に答える形で、
文字は大きく、大事なところは太字で、とても読みやすい。読書が苦手な人でも、それほど苦にならないように書かれてます。ていねいでわかりやすいお話です。
退職して第2の人生を始めた人が塾生になってますが、内容はどの年齢の人にも当てはまります。死ぬまで生きているのだから、生きている限り学べるわけです。現役真っ最中で忙しくてそれどころじゃないよ、という人も生きているわけですから、心の病気(苦しさ)がひどくなる前にちょっとだけでも読んでみてもいいんじゃないかな、と思います。(というか、早ければ早いほどいい。中学生でも読めると思う)
わかってるけどそれができないんだよ、という人も「そうなんだよなあ」と、ちょっと意識するだけでも違うと思うのです。1日で読める簡単な?(内容は深い)本です。
仏教塾・・・
私も、苦しんでいる人を何とか楽にしてあげたいと思うことがありますが、とてもとても、そんな能力はありません。まずは自分がしっかり学んで、実践することが先だなあ、と思います。苦しんでいる人はプライド(自我意識)が高い。プライドを傷つけず、自分で気づくように教える、というのは本当に難しい。教えちゃダメなんですよね。自分で気づかなきゃ。お釈迦様が、最初人々に説法することをためらったというのがよくわかります。(お釈迦様の教師としての能力はすごいものです。教師であり、カウンセラーであり、心の病気を完治させる医者であり…)
なので、なんでこの世は思うようにいかないのだ、なんで平和な暮らしができないんだとちょっとでも悩んだり苦しんだりしてる人が、何とか自分で説法を聞くなり、こういう本を読むなりすれば、きっと楽になって、社会もよくなっていくんだと思うのです。
詰め込み学校でなく、こういう仏教塾のような学校や塾がふえるといいなあ。
星5つ
苦しんで悩む生命が苦しみなく、
おそれて悩む生命がおそれなく、
悲しんで悩む生命が悲しみなく、
一切の生命が安穏でありますように。
(教育)講演会や研修会、昔は一日かけて出かけていって勉強してましたが、最近は家のインターネットで気軽に視聴できるようになりました。昨日もスマナサーラ長老の講演をYouTubeで視聴しました。1時間50分もあり、2週間程度の限定公開ですが、時間がある方は視聴してみませんか?
https://www.youtube.com/watch?v=Q_r3KpWK_JY
( ↑ クリックすればYouTubeに飛びます)
【メモ】
「束縛の多い世の中で自由に生きる ~本当の自由とは~」
この世に自由はない。肉体は自由にならない。(生老病死は当たり前。肉体に依存して生きているんだから苦しいのは当たり前。)
世間の束縛からは逃れられない。勝手わがままは通用しない。
無関心だと自由がなくなる。権力者と国民は互いに監視し合う。
法律を守ることで自由になる。法律は改良していくもの。
いかなる場合も、権力を”誇示”すると自由がなくなる。家族も民主主義国家。一人一人が家族の一員としての義務を果たせば幸せに生きられる。みんなただの一員。
会社、コミュニティ、クラブ、、、どの社会にも束縛はある。社会は”自分の幸せのため”に入るのだから、約束は守るべき。束縛は必要。不可能な「関係を切る」のではなく、「穏やかな関係を保つ」べき。自我を張らない、ギブ&テイク。でも、損得を考えて、赤字なら退会すればいい。
《自由に生きるとは》
束縛があるのが「世」なのです。
個人が世の中でどのように生きるかという問題なので、世界を変えるのではない。
自分が世に通用できるように、成長するのです。(進化論です)
出かけるときに雨が降り出したら、雨をやめさせるのではなく、傘をさして出かけることです。
「雨が降りたければ降ってください。私は恐怖も何も感じません」、、、これが自由。
《自由への道順》
世界と対立しないで調和を保つ。
他の生命の尊厳を壊さないこと。
すべての生命に、慈悲喜捨の気持ちを実践する。
生きる上で何をしても「適度、適量」を守る。
貪瞋痴の衝動を制御するために、道徳・戒律を守る。
一切の現象は「無常・苦・無我」であると発見する。
自由に生きるとは、この世や物質(肉体)に”執着”しないということ。
貪瞋痴の感情の奴隷にならないということだと思います。
こういう仏教法話(これは講演ですが)を、時々にでも普段から聞いてると、生きるのが楽になるのではないでしょうか。貪瞋痴の感情の奴隷にならないこと。ありのままを冷静に見て、理性的に明るく生きる。
おすすめです。
昨日、Uストリームでスマナサーラ長老の説法を聞いてて分かったこと。
「すべて学校である」
教えてもらうのではなく、”自分が”学ぶのです。何でも学べばいいんです。
物事はネガティブでもポジティブでもない。ただの流れです。
次々と起こる問題、出来事は「すべて宿題」です。
自分の人格を向上させることが宿題です。あの人は嫌だ・・・ではなく、宿題。
学ぶとは”進化”すること。自分の心の安らぎをどうするか、です。
お殿様(親)も、政治家(国)も、宿題なんだ。親も政治も人。
な~んだ、同じことだ。お殿様はとっくに乗り越えた。なら、政治(国)も乗り越えられる。
人は人、自分は自分。自分には人をどうしようもない。けれど、幸せでありますようにと慈悲喜捨の気持ちで接する。親孝行、恩は返す。けれど、親(国)だからと言ってすべていう通りにする必要もない。
危険な人(国)からは距離をおく。そして、自分がしっかりする。
悪いことは断れる人間になる。理性的でやさしい人間になる。
国(政治家)に対しても慈悲喜捨。
人をどうこうじゃなく、自分がしっかりする。
それでいいんだ。悩む必要はない。
生きとし生けるものが、幸せでありますように・・・
ある女性が介護の問題を質問されてました。わがままな親を24時間一人で介護してバトルになったりして精神的に苦しい、まいってしまっているという話でした。大変な宿題です。
こう考えてくださいという答えは、、、
人は生まれてからだけでなく輪廻転生の中でも、善くないことを色々やってきているものです。だから人間は誰でもパーフェクトではない。何が起きてもおかしくはない。また、他の生命から栄養をとるなどして、いっぱい恩をもらっている。もらってばかりで返してない。今苦しいのは、過去(世)の借りを返しているんだと思いましょう。借りを返せばスッキリです。(わがままな親が、介護システムが、私を苦しめる社会が悪いんだと考えるのではなく、ということでしょうね。そして自分が悪いんだと自分を責める必要もない。)
今、介護で疲れて精神状態が弱っている。だから忍耐力を育てるんだ、介護はその道場だと思ってみましょう。私は修行をしているんだと。いかに落ち着いて明るくいるか、これが忍耐。
「最高の修行は忍耐である」
介護されている人の方がすごく苦しんでいるのです。まったく自由がなくて、思うように出来なくて、、、。憐れみの気持ちを持ちましょう。(言う通りにさせようというのは支配、自分のわがままですからね)
親から受けた恩は大変なもの。親孝行はものすごい善行為です。なにがあってもなくても、親孝行はするべきです。恩は返さなければいけません。それが、自分の徳にもなります。(ありがとうと言ってもらわなくてもそんなのどうでもいいんじゃない?)
介護はすばらしい善行為です。人を助けることで、自我意識が減ってきて、徳になる。介護できる機会があるのは、有り難いことなのです。でも、自分の能力を超える場合は、(週に1回でも)介護施設を利用したり専門の人などにお願いして休みましょう。
・・・表現は違いますが、こういう内容でした。長老(上座部仏教のお坊さん)も晩ご飯も、俗世間的な楽しみもなく修行されてますからね。18歳から30歳過ぎまで、お寺で老僧を亡くなるまで24時間介護し続けた青年の話もされてました。
業とはただの行為(意志)で、ポテンシャル。因果法則で、行為が原因になり悪因悪果にも善因善果にもなる。過去の業の中で、私たちはたくさんの借りをつくっています。借りがあるから、返すものを返さないから苦しいこの世に生まれる(輪廻する)のです。ですから、この世で借りを返さなければいけない。つまり、徳を積む。善い行為をするということです。親孝行、ボランティア、介護、(ゴミを拾うでも愛語をかけてあげるでも、仕事でも家事でも)何をするにも慈しみの優しい心、明るい心をもってすれば善行為になります。
何があっても、元気に明るくやっていけるように日々修行に勤めたいと思います。
学童の支援員をしているママと、
おやつの時間、「いただきます」をする時に子供たちがパッチンと大きな音をさせて手を合わせる(音をたてるのが面白いのかな)。それを、ある支援員さんが「神社じゃないんだから、音をたてません!」と叱るけど、直らない。その人がいないときにはまた「パッチン」とやる。叱っただけじゃ、意味ないよねえ・・・
という話をしました。そこで、
あるコマーシャルで、
「お手々のしわとしわを合わせて、しあわせ(しわ合わせ)~~~」
というのがあるけど、これを教えてあげたら、子供たちにも楽しくわかりやすいかもね
と、提案してみました。
でも、シャレはおもしろくていいけど、何でしあわせになるのかな。
そもそも何で、手を合わせるのかな?
なんで合掌するのかをネットで調べてみました。
右手と左手というのは、同じ手でありながらそれぞれ役割があり、常に違った働きをしています。右手が箸を持てば左手はお茶碗を持ちます。右手がペンを持てば左手は紙を押さえます。また右手を私とすれば左手は相手となります。(宗教では、右手が私なら左手が神様とかあるみたいです)
ご飯をいただく時にもまず手を合わせますね。
食事をいただく時には、食材の命と自分の命が一つになる。相手と自分とが一つになるというところから始まります。ひいてはこの世に生きるもの全ては姿形は違い、様々な役割があり、違った生き方をしていますが、決して別々のものではなく皆同じです。皆寸分変わらぬ同じ命を持って生まれて来ています。その同じ命が一つになるのです。草も木も、太陽もお星さまも、神様も仏様も皆自分と一つになるのです。そこにはなんの差別も隔たりもなく、喧嘩も、戦争もありません。それが合掌の心なのです。
すべての生命は同じ命であり、なんの差別も隔たりもない。みんな仲良く、助け合って生きていきましょう。みんな同じ地球の生命です。そういう意味があったんですね。
自分も他の生命も、生命はどの生命だって生きていたい。けれど、私たちは他の命をいただいて(他の生命のお陰で)生きている。だから、感謝の気持ちをこめて、「いただきます」と言うのです。食べ物を提供してくれるすべての人にも感謝して「いただきます」をするのです。
こういう話を子供たちにしてあげれば、両手を乱暴にパッチンとケンカさせずに、やさしく合わせることができるのではないかと思いました。
ワタシも、ちゃんと手を合わせたいと思います
思い通りに体が反応してくれない。心と体がうまくつながらない。
言動をコントロールできない”体”が問題なんです。
”まるで不良品のロボットを運転しているようなもの”なのだそうです。
もどかしく、苦しいでしょう。本当に体ってめんどくさいですね。
コミュニケーションがうまくいかない東田さんは、文字盤やパソコンを使えば普通にコミュニケーションがとれるようになりました。この本は、東田さんが中学生の時に書かれた物です。高校生の時に書かれた続編も読みました。人にとって大事なことをたくさん教えてくれています。
東田さんの場合は、脳の言葉の部分がうまく機能してないかわりに、他人の意図を読み取る部分が普通の人より発達しているそうです。私は、豊かな表現力は”心”がきれいだからではないかと思います。言われることが、とても深いのです。会話はうまく出来ませんが、心や気持ちは他の人たちと変わらないし、それ以上なのです。
お釈迦様は、この世に”障害者”という人はいないと言われます。それは、つまり、誰もがみんな障害をもっていて、みんな苦しみながら生きているということ。一人一人はそれぞれみんな違っていて、苦しいこの世で、何とか助け合って生きているだけ。みんな、助け合わなければ生きていけない。助け合うために、この本はとても役に立つと思います。
>大きな声はなぜ出るのですか?
>独特の話し方はどうしてですか?
>声をかけられても無視するのはなぜですか?
>跳びはねるのはなぜですか?
すべてに理由があります。納得できます。ちゃんと理解すれば何の問題もありません。
出来ないところにばかり注目するのではなく、出来るところを伸ばす。脳が喜ぶことをやってあげればいい。
みんな違って当たり前。ただの個性です。人間が、個性を個性として認め、助け合って仲良く暮らせるようになればいいな。
東田さんのことがNHKで放送されていたそうです。YouTubeにアップされていたので、みなさんに観ていただきたくお借りします。自閉症と言われる方々をありのまま、正しく理解することは、私たちみんなの幸せにつながると思います。
それと、東田さんのお母さんが、明るく大変穏やかで本当にやさしいお顔をされているのが印象に残りました。
「君がぼくの息子について教えてくれたこと」
・・・人の視線が怖いです。刺すような視線を向けるからです。
・・・昔は、自然と一体化した時間が幸せでした。今は、家族で笑っているときや、僕の本を読んだ感想をいただける時が幸せです。
星5つ
小学三年生からお坊さんへの質問
Q5 お母さんがどんなに大切なのですか?
「お母さん」は、この世で替えることの出来ないたった一人の人物です。我々のことを正直に、こころの底から心配してくれる唯一の人です。自分のことよりも子供のことを大事にしてくれる。正直に応援してくれる。励ましてくれる。・・・・・・どんな人にもこの大事な人がいます。誰にでもお母さんが一人いることは、最高に幸福なことです。
なぜお母さんは怒るのか
それはお母さんが自分の大切な仕事だと思ってやっているのです。誤解してはいけません。決してお母さんは子供のことを怒っているわけでも、嫌になっているわけでもないのです。・・・・自分の仕事を一生懸命やっているだけです。
母は自分に命を与えた神さまで、何でも教えてくれる大先生で、苦しいときは一緒にいてくれる第一の友達です。間違いを直してくれる、世の中で恥をかかないで生活できるように指導してくれる先輩でもあります。ですからお母さんがいくら怒っても誰も気にしないのです。母の怒った顔なんかは2,3秒で優しい顔に変わるものです。
しかしお母さんはうるさすぎる・・・
お母さんも普通の人間です。・・・この世で一番難しい仕事をまかされているのです。ですから、すごく心配する。まちがったか、まちがったかといつも独りで悩む。
しかし忘れてはいけません。お母さんも普通の人間です。母も失敗する、間違いもある、誤解もする、疲れる、ストレスもたまる、たまにやってはいけないこともやってしまう。普通の人間だからしょうがないのです。子供はわがままで、お母さんの弱いところは見ようとしないのです。何でも完璧にやってくれると思っているのです。それは無理な話です。
母の失敗や、怒ることなど、気にしない方が正しいのです。母の失敗だったらいつも許してあげることは子供の責任です。完璧な母はいません。・・・・・父親も同じです。
お母さんに逆らうのは悪い?
何でもかんでも母が言う通りにする必要はないのです。母は全てを知っているわけではありません。自分の生き方は自分で決めなくてはなりません。・・・・・母は絶対的に大事ですが、子供は母の奴隷ではない、ということも覚えておきましょう。
お父さんはどこに行ったの?
お父さんもお母さんに負けないほど、子供のことを心配するのです。お父さんの応援がなければ、お母さん一人では子育てはうまくいかないのです。・・・・二人は互いに協力してがんばるのです。
大人にはお母さんがいらないの?
親のありがたさは、自分が死ぬまでつづくものです。どんな大人もこれを忘れてはいけないのです。子供と違って大人は、親に甘えてはいけないのです。大人の仕事は、親の面倒を見ることです。親孝行をすることです。・・・・・たとえ歳をとっても、親は精神的な安らぎを与えてくれるのです。
(「一生役立つ ブッダの育児マニュアル」 アルボムッレ・スマナサーラ長老講義 より抜粋)
これは、親が子に言うことではないですね。これを言ってあげられるのは、第三者。先生、お坊さん。おばちゃん(まみおば)の仕事ですね。
親は、自分が間違った時は「間違っちった」と、失敗したときには「失敗した~」と、分からないときは「よく分からないから調べてみるね」と、ごまかさずに正直に言うべきです。偉そうに何でも分かった風を装わないことです。そして、いつも子供のために精一杯、謙虚に努力することですね(説教や押しつけでなく)。親は子供の先生だけど、親友のように付き合えるといいですね。
お父さんもあれこれ言い訳せず、できることをして、お母さんと仲良く協力してやっていかなきゃね
そして、大人として、親を大事にしたいですね。