【つらい心がほっこり癒される
心を守るならば、幸せになれる
悩みが消えてラクになる ほっこり×ほっこり
かわいくてゆる~いねこ と ブッダのありがたい言葉 のコラボレーション
気づきある人にはより良い明日があります】
帯の言葉どおりの、読んで眺めて癒され、気づかされ、ラクになれる本です。
対立を煽る言葉だらけの世の中だが、我々は皆を和合させる言葉遣いをしよう
(中部8 戒め経)
誰のことも欺かず、軽んぜず、怒鳴らず、腹を立てず、ただ幸福を願う人になること(スッタニパータ1-8 慈経)
自分を苦しめない、他の人々も傷つけない そのような言葉だけを語りましょう
(相応部8-5 善語経)
コラムもいい
「他人を正さない」
・・・人間関係を良好に保つ秘訣、、、「他人を正そうとしないこと、相手に説教しないこと」です。たとえ子供でも、正そうとしないでください。たとえ家族でも、説教しないでください。他人に自分の理想を求めないことです。
代わりに自分の心を戒めるのです。どうすれば自分が悩まないで済むのかと、自分の心配をすればいいのです。
気をつけよう、、、
何度も読んで反省し戒め、気づきと共に癒される。
お釈迦様の教えはいいなあ
煩悩だらけのニホン社会(激流)の中に、
悟ってない凡人(私)がどっぷりはまってると、
あまりの煩悩に翻弄され、押し流され、溺れてしまいます。
心が煩悩に汚れて苦しくなる。
いかん、いかん。ここんとこずっとお釈迦様の教えに触れてなかった。
ということで、久しぶりに仏教のお勉強。
【「ブッダのことば」を現代に活かすために、実践の立場で精読する。人は何を目指して生きるべきなのか?日本語での理解が困難だった最重要経典『スッタニパータ』をパーリ語の真意に立ち返りながら、一つ一つ正確に理解する。】
お釈迦様の教えを思い出しました。
人間の苦の原因は「無明」からの「執着」
無明、無智とは、超大雑把に言うと、
真理が見えてない、わからない状態。当然理性的じゃない。
執着は、
存在欲(死にたくない。生き続けたい)によって、
好きなものに執着し、嫌いなものを嫌悪排除し、無智によって無関心である状態。
やっぱり理性的じゃないね。
好きも嫌いも感情という煩悩。(大雑把だな)
五つの器官(眼耳鼻舌身)から入ってくる情報を、主観によって妄想(意)することで苦しむ。ならば、情報や妄想はそのまま放っておけばいい。
いつでも観察して、放っておく。
引っかかれば凡人は大体主観で捏造してしまう(妄想と言う思考)ものなので、
もっと放っておく練習をしないと。冷静に眺めてるだけでいい。
ああ、ついつい引っかかってしまってたなあ。
心があちこちに行かないように、落ち着きや集中力を高める。
呼吸は苦しみを楽に変えてくれる薬。呼吸を調えよう。
呼吸も放っておいて、眺めておくといい。(呼吸もヴィパッサナー瞑想になる)
ありのままを観察し、執着して感情的にならないこと。放って流しておく。
観察し放って、観察し放って、観察し放っておく。(ヴィパッサナー瞑想)
妄想にやられないように、慈悲の心を育てるよう、慈悲の言葉で心をいっぱいにしておく。(慈悲の瞑想)
基本でしたね。
経典の解説を読むだけで、心が落ち着いてきます。
第一巻も、もう一度読んでみます。
生きとし生けるものが 幸せでありますように
すべての生命の 悩み苦しみが なくなりますように
「慈経」解説最終回。 →経典音声
第10偈
ディッティン チャ アヌパガンマ スィーラワー ダッサネーナ サンパンノー
( 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、)
カーメース ヴィネッヤゲーダン ナヒジャートゥ ガッバ セッヤン プナレーティー ティ
(諸々の欲望に対する執着をなくし、もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す)ことはありません。)
邪見(=自我が実在するという錯覚)を乗り越える。
生命とは、もともと単なる現象にすぎません。(瞬間瞬間、変化、生滅しているのですから)
「無常」だから「無我」なのです。変わらぬ「自我、私」はないのです。
変わり続けている、というのが紛れもない事実。
この事実を受け入れる。
無限の、無量の慈悲の心を完成させた人は、「自我意識」などありません。
差別意識も偏見も、全くない。
嫌いな人も嫌いでなくなる。(嫌いでも好きでもなく、慈悲の気持ちがあるだけ)
非常に道徳的な存在になる。
主観がない。「ありのままの世界」が見える。
欲に対する執着が、ない。
そういう人は、苦しい輪廻を繰り返すことはなくなる。安らぎしかなくなる。
・・・・・そうです。(としか言えない)
>私たちには、完全に世界を直して完璧な社会をつくることはあり得ないことです。
だから、、、、個人に向けて「一人ひとり、頑張ってください」「一人が頑張ったら周りに影響を与えて、それでその人々が頑張れば、また広がっていくんだよ」というのです。
>仏道は脳開発だから、一人でやるしかないのです。
個人の生き方の問題です。
政治で言えば、「草の根」運動みたいなものですね。
一人ひとりが、それぞれ「自分で」できることをやって、すこしずつ共感の輪を広げていくしかない。決して、他人に押し付けたり、強要したり、お願いしたりするものではないのです。
慈しみによって心が自由になれば、身体も軽くなる。
怖くないから行動に移しやすくなる。
慈しみからの行動が増えれば、社会もよくなる。
究極の自由をめざして、精進あるのみです。
>条件付きの慈悲はお釈迦様の説かれた慈悲ではありません。
(ゴキブリだけは許せないとか、意地悪な人は痛い目に遭えばいいんだ、とか)
>条件をつけたくなるのは、自我の錯覚があるからです。
自分の命は他人の命より大事だと思っているからです。
人間だから、こういう気持ちは誰にでも普通にあるでしょう。
しかし、幸福に至るには、この「自我意識(エゴ)」を乗り越える必要があります。
慈しみの心を育てる必要があるのです。
「無条件の、無量の、無制限の慈悲」を心の中に育てるのです。
「一切の生命」「生きとし生けるもの」が対象なのです。
その範囲は?
第8偈
メッタン チャ サッバ ローカスミン マーナサン バーワイェー アパリマーナン
(慈しみの心を一切世間(すべての生命)に対して、限りなく育ててください。)
ウッダン アドー チャ ティリヤン チャ
(上に、下に、横(周り)に[棲む如何なる生命に対して]も、)
アサンバーダン アベーラン アサパッタン
(わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育てます。)
いつ?
第9偈
ティッタン チャラン ニスィンノー ワー
(立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、)
サヤーノー ワー ヤーワタッサ ヴィガタミッドー
(あるいは横になっていても眠っていない限り、)
エータン サティン アディッテェッヤ
(この[慈悲の]念を しっかり 保ちます。)
ブラフマメータン ヴィハーラン イダマーフ
(これが梵天(崇高なもの)の生き方であると言われています。)
いつでもどこでも、
「生きとし生けるものが 幸福でありますように」
という思いを持ち続ける。
精進、精進、、、ですね。(^^)
慈悲って、実際どんな気持ちなのでしょうか? (慈経音声)
第6偈
ナ パロー パラン ニクッベーター ナーティ マンニェータ カッタチナン カンチ
(場所) (環境)
(どんな場合でも、ひとを欺いたり、軽んじたりしません。)
ビャーローサナー パティガ サンニャー ナーンニャマンニャッサ ドゥッカ ミッチェッヤ
(怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いにひとの苦しみを望みません。)
どんな場合であっても、人を欺いたり、軽んじたりする気持ちが起きないならば、
怒鳴ったり、腹を立てたり、他の生命の苦しみを望んだりしないならば、
その気持ちが慈悲なのだと、お釈迦様は教えてくれます。
第7偈
マーター ヤターニヤン プッタン (あたかも母が、たった一人の我が子を)
アーユサー エーカ プッタマヌラッケー(命がけで守るように、)
エーワンピ サッバ ブーテース (そのようにすべての生命に対しても、)
マーナサン バーワイェー アパリマーナン(無量の[慈しみの]心を育てるのです。)
現代では「毒親」「モラルハラスメント」などと言われるように、「あなたのため」などと言いながら、「~ならば、いい子。~ならば悪い子」「~でなければいけない」「~するべき」「~してはいけない」と「自分の価値観」を押し付け、(無意識に)自分のエゴや欲を満たそうとする親もいるようです。
しかし、本来、母親は子供に対して「無条件の愛情」をもつものです。
>母親は子供を守るために決して条件を付けない
>「あなたが言うことを聞くならば、命を守ってあげる。そうでなかったら、勝手にしろ」と言うことはありえません。
・・・本来はそうなのです。
時には腹が立つこともあるでしょう。人間だから、、、。でも、
イライラしているお母さんも、母本来の気持ちを思い出してもらいたい。
タコのお母さん、鮭のお母さん、動物のお母さんたちを見てもらいたい。
あたかも母が、自分のたった一人の我が子を、
命がけで守るように、、、
これを念頭において、日々自分を振り返り、慈しみの心、
無量の心を育てていきたいと思います。
「慈しみ」にはいかなる条件もありません。(無条件、無制限ですね)
小さな「私意識」に縮こまっていないで、徹底的に差別意識をなくすのです。
「一切の生命」「生きとし生けるもの」というのは、無限ということ。
差別意識(=自我意識)が一切ないのです。(自分も他人もない、「一切の」生命)
第4偈
イェー ケーチ パーナ ブータッティ(いかなる生命であろうともことごとく)
タサー ワー ターワラー ワー アナワセーサー(動き回っているものでも、動き回らないものでも)
ディーガー ワー イェー マハンター ワー マッジマー ラッサカーヌカ トゥーラー
(長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも)
タサー:揺れる(怯える)生命 ターワラー:安定している生命 アナワセーサー:その他の生命
これだけでもすべての生命が入りますが、
ディーガー:胴体が長い生命 マハンター:大型の生命 マッジマー:中型の生命
ラッサカー:胴体がすごく短い生命 アヌカ:微細な生命 トゥーラー:太ってる生命
慈しみの対象に漏れる生命はいません。すべての、一切の生命が当てはまるのです。
第5偈
ディッター ワー イェー ワ アッディッター (見たことがあるものもないものも)
イェー チャ デゥーレー ワサンティ アヴィデゥーレー(遠くに住むものでも、近くに住むものでも)
ブーター ワー サンバウェースィー ワー(既に生まれているものも、卵など、これから生まれようとしているものも)
ディッター:目に見える生命
アッディッター:見えない生命(微生物、地獄・餓鬼道・天界の生命も)
イェー チャ デゥーレー ワサンティ:遠くに住んでいる生命(宇宙の果てまで住んでいる生命も)
アヴィデゥーレー:近くに住んでいる生命(体の中にいる生命も)
ブーター:形がもう完成している生命
サンバウェースィー:完全な身体を期待している卵などの生命(卵、胎児、蝶になる前の幼虫、生まれる前の生命も)
サッベー サッター バワントゥ スキタッター
生きとし生けるものが 幸せでありますように
激流のような今のこの世の中にあって、
心を落ち着かせ、理性を保っていられる島を自分の心の中につくる。
そのために「慈しみの実践」「慈経」はとても役に立つと思います。
25.思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流をも押し流すことのできない島をつくれ。 (ダンマパダ)
「慈経(メッタスッタン)」を、意味が分かって読むと心が洗われます。落ち着きます。
具体的なビジョンが見えてきます。
一緒に口ずさんで、いつでも心に留めておきたくなります。
皆さんもよかったらどうぞ → 慈経の言葉と日本語訳と音声
第1偈
カラニーヤ マッタ クサレーナ ヤン タン サンタン パダン アビサメッチャ
(目的をよくわきまえた人が、静かな場所へ行ってなすべきことがあります。)
心を育てるためによい環境は「静かな(サンタン)場所(パダン)」です。
心が混乱しない(ヤンタン)場所を選ぶべきです。
【自我を制御するための15のチェックリスト】
慈悲の瞑想にふさわしい性格があります。
意識して少しずつでも育てるようにしましょう、というアドバイスです。
サッコー ウジュー チャ スージュー チャ スワチョー チャッサ ムドゥ アナティマーニー
(何事にもすぐれ、しっかりして、まっすぐでしなやかで、人の言葉をよく聞き、柔和で、高慢でない人)
①サッコー:ものごとを上手にこなせる(ちゃんと、しっかりやる)
②ウジュー:性格的に真っ直ぐ(芯の強い人間。イエス、ノーはっきりする)
③スージュー:正しいものごとについてめげない(ただの頑固とは違う)
④スワチョー:言われやすい 人の話に耳を傾ける、他人のアドバイスを素直に受ける。
⑤ムドゥ:柔軟な
⑥アナティマーニー:謙虚な
第2偈
サントゥッサコー チャ スバロー チャ アッパ キッチョー チャ サッラフカ ヴッティ
(足ることを知り、手が掛からず、雑務少なく、簡素に暮らし、)
⑦サントゥッサコー:得たもので満足を感じる
「何でもいいよ、あるもので大丈夫だよ、なくても気にしないで」といった、足るを知る性格
シンプルな生活で満足
⑧スバロー:面倒を見やすい人間 (要求が少ない=少欲)
⑨アッパキッチョー:ややこしい仕事がない あまり忙しくない やるべきことが少ない
⑩サッラフカヴッティ:軽やかな、シンプルな生活習慣 ものごとを重く受け取らない
サンティンドゥリョー チャ ニパコー チャ アッパ ガッボー クレースアナヌギッドー
(諸々の感覚器官が落ち着いていて、賢明で、裏表がなく、在家に執着しない)
⑪サンティンドゥリョー:眼耳鼻舌身の感覚が落ち着いていて、立ち振る舞いも落ち着いている
⑫ニパコー:理性がある。感情を抑える(感情に左右されない人は理性がある)
感情では判断しない。感情ではしゃべらない。感情では行動しない
⑬アッパガッボー:二面性をやめる 裏表のない人間(行為、言葉、思考)
⑭クレース アナヌギッドー:他人や家族に必要以上に執着する、依存することをやめる
慈しみを持つのは構わないけれど、執着をもってはいけない。
第3偈
⑮ナ チャ クッダン サマーチャレー キンチ イェーナ ヴィンニュー パレ- ウパワディッユン
智慧ある識者たち、理性のある人々が批判するような、どんな小さな過ちも犯さない。
理性のある人はやたらに人を批判しません。優しく教えてくれ、なぜそれが間違いなのかと説明してくれます。
「このような言葉、このような思考は、理性ある人なら認めてくれるだろう」という気持ちで行為したほうがいいのです。
15のチェックリストで性格をいくらか直しながら、次に実践です。
大脳にずっとインプットします。繰り返して染み込ませていきます。
スキノー ワー ケーミノー ホントゥー
幸福でありますように。安穏でありますように。
サッベー サッター バワントゥ スキタッター
生きとし生けるものが 幸せでありますように。
ここまででも、随分と心が元気になるのではないでしょうか。
最後のフレーズを繰り返し心に染み込ませると、心が洗われていきます
・・・つづく
慈しみの実践とは、具体的には
「慈しみについて理解し、慈しみの念をもつこと」だと理解してます。(念とは今の心)
「慈しみ」「慈悲」とは何ぞやですが、意味があいまいな「愛」とは違います。
他の生命に対する自分の正しいアプローチ
具体的には4種類あります。
①メッター慈(友情):一切の生命に友情の気持ちを実践する
生命は仲間であって、敵でも味方でもない。一切のグループをつくりません。
昆虫も、動物も、人間も、神々がいるとするならば神々も、同じ仲間です。
皆、自分の友達です。
②カルナー悲(抜苦):一切の生命に対して憐れみ(抜苦)を持つ
生命が何か苦しんでいたり困っていたりすると、「ああ、なんとかしたいな」とか「助けてあげたいなあ」などと思う気持ち。
「生命たるものは必ず悩み苦しみがある」とわかる。
解脱に達している方々も、まだ肉体を持っているのだから肉体の悩み苦しみはあるのです。
③ムディター喜(随喜):一切の生命に対して喜びを感じる
元気に明るく頑張っている生命を見て、「よかったね」という気持ちを抱く。
他の生命を観察する時、そこに自我を被せないこと。
(「自分」と比べない)
④ウペッカー捨(平等):一切の生命に対して「平等心」を持つ
誰だって一生懸命、生きようとする生き物に過ぎないのだとわかる。
批判することも、賛嘆することもできない。
すべての生命は、生まれて、その生命に適した生き方をして、老いて死ぬだけ。
かわいそうだと思える生命も、羨ましいと思える生命もいない。
一切の生命に対して、冷静・平常の心を保つように努力する。
自分に実践しやすい項目を選べばいいそうです。
「慈経」はメッター慈の実践の仕方を紹介しています。
慈しみの実践を世界の多くの権力者、政治家の方たちも実践されれば、世界はよりよくなるのではないかと思います。批判忖度脅し制裁駆け引きなどの外交の前に、慈しみの心の実践。慈しみの外交を。
「私が~、私は~、私の~」という「自我意識(エゴ)」が強くなると、
「お前が~、お前は~、お前のせいで~」という敵対心や競争心などが強くなってくる。
「私もあなたも、お互い様」という心がなくなってくると、命のネットワークの中で生きている生命は、孤立していく。
慈経のテーマは、「無制限の慈しみ」
「無制限の慈しみを育てることによって、悩み苦しみしかつくらない、厄介者である私たちの小さな『自我』を破ること。無制限に広がった心を持つ人間になること」という教えです。
「私」は「私に見える世界観」を持っていて、他の人はどんな世界観を持っているのかということは知らない。
他人の意見と自分の意見を比較して、自分の意見を改良しようとする。立派な努力には違いありませんが、
問題は他人の意見など理解できないこと。
そこで行われているのは、
「自分には他人の意見がどのように見えるのか」ということだけ。
「自我の病」に罹っている人々のコミュニケーションは、単なる主観の対立に過ぎない。
「私(自我)」には「間違った意見を持つ」ことはできない。「自分の意見が正しい」と思う。
「私にとって」は事実であり、それは嘘ではないのです。
なので、社会は混乱する。問題が生じる。難しいことになる。
主観ばかりの対立の世界では、何をやってもうまくいくはずがない。
正しいのは、意見を持つことではなく、正見をつくること。(心に被っている自我の磨りガラスを割る。偏見をなくすこと)
「自我(私)」とは錯覚である。「私」という意識はただの意識でしかない。
という気づきを発見できれば、すべての問題は解決する。
その方法が、「慈しみ」の実践。
慈しみの実践は、大脳を開発するプログラムです。
獣の脳(原始脳)の衝動を抑え、大脳を開発する。慈しみを実践する。そして理性を確立して生きる人間になる。安らぎ、安穏な心になるのです、、、。
幸福への道、平和への道の歩き方を教えてくれる仏教。
「偉大なる人の思考」というお経をみても、よく理解できる。
少欲で、足ることを知り、遠離(独住)を喜び、精進し、よく気づき、心を統一し、智慧がある、そして無為(現象を乗り越えた真理、涅槃の境地)を喜び楽しむ。
逆に、苦しみの道を歩く人は、
多欲で、不満な人、衆会を楽しみ、怠け者で、愚か、心は混乱し、無知で、有為(現象、妄想の世界)を喜び楽しむ。
なるべく、平和への道を歩きたいなあ。
昨日のつづき。もうひとつ。
第Ⅶ篇第二章 在俗信者
第二節 ウダヤ
ウダヤさんというバラモン(当時のインドの階級)の家にお釈迦様が托鉢に回っていた時のこと。ウダヤさんの家に3日続けて行くと「三回もくりかえしやって来て、しつこいなあ」と言われたお釈迦様は答えました。
「 いつもくりかえし種子を蒔き、
いつもくりかえし神々の王が雨を降らし、
いつもくりかえし農夫は田畑を耕し、
いつもくりかえし〔雨を降らす神々の王が〕他の国土にまでも及び、
いつもくりかえし托鉢行者が食物を乞い、
いつもくりかえし施主が施与をなす。
いつもくりかえし施主は施与をなしたあとで、
いつもくりかえし天界なる場所におもむく。
いつもくりかえし乳牛業者は乳を搾り、
いつもくりかえし仔牛は母に近づく。
いつもくりかえし人は疲れ、また苦しみ労する。
いつもくりかえし愚者は母胎に入り、〔迷いの生存をつづける〕。
いつもくりかえし生まれ、また死に、
いつもくりかえし墓場にはこぶ。
しかし智慧豊かな人は、再び迷いの生存に至ることのない道を得て、再びくりかえし生まれることはない」
「輪廻」のことですね。ワタシたちは無明(無知、愚か、悟ってない)からまた生まれる(輪廻する)のです。そして、苦しい生をやり直す(修行とも言える)。ウダヤさんも私たちも悟ってしまえればいいのですが。お布施の機会をもらって有り難いと思えないウダヤさんだから繰り返されたのかな?
勉強でも運動でも、なんでもそうです。わかってしまう、ちゃんと身につくまでは、繰り返し練習なり訓練なり失敗(経験)なりを繰り返す。くりかえすのは苦しかったりするけど、くりかえし励んでいればいつか楽になる。まあ、くりかえしも楽しくやってしまえばいいと思います。
善いことのくりかえしは大事だよね。
というか、アホだからくりかえすのは仕方ないよなあ
くりかえし、くりかえし、、、だなあ。
はやく賢くなりたいものです。
昨日の詩もそうだけど、声に出して音読してみてください。
心に沁みます、、、ワタシは
116 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。
117 人がもし悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。
118 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。 (岩波文庫 中村元訳 ブッダの真理の言葉)
11月は一度も記事をアップすることなしに過ぎていきました。有り難いことに、毎日、穏やかに元気に過ごすことができております。
久しぶりのアップは、今読んでる「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ」(岩波文庫 中村元訳)のなかで、心に残っているところをひとつ紹介します。
これ(サンユッタ・ニカーヤ)はお釈迦様が(心で?)天界の神々とか悪魔(惑わすもの)とかと対話されたことが集められています。バラモンとか普通の人と実際に対話されたこともたくさんあって、お釈迦様の言葉(詩の形になってます)が真理の言葉(法)になっていて胸に響きます。また、お釈迦様の対話の仕方という点でも大変勉強になります。
第Ⅶ篇第2章 在俗信者
第1節 田を耕す人
お釈迦様が托鉢に回られたところのある農夫が、自分たちは土地を耕して種をまいて苦労して育ててから食べているんだから、あなた(道の人、お釈迦様)も自分で食べ物をつくって食べたらどうか、ということを言います。
そこでお釈迦様は答えます。()は訳者の読み。〈〉はワタシの解釈。
「わたしにとっては、信仰が種子(たね)である。苦行〈学び、修行、観察瞑想などのこと?〉が雨である。智慧がわが軛と鋤である。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ち着けることがわが鋤先と突棒とである。身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和がわたくしにとって〔牛の〕軛を離すことである。
努力がわが〔軛をかけた牛〕であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。
この耕作はこのようになされ、甘露の果実(みのり)をもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦しみから脱れる。」
農夫にこのように答えて、自分も耕作者、努め励んでいるものであることを示す、、、と同時に、法を説いているのです。しかも、淡々と。
お釈迦様、すごい!!
これを聞いた農夫は食物を捧げようとするのですが、お釈迦様は受け取りません。なぜなら、法を説くということをしたので、受け取ればその「報酬」となってしまうから。報酬(見返り)を受け取ることはできないのです。”他の立派な人にお布施してください”と言われます。
「詩を唱えて〔報酬として〕得たものを、わたしは食うてはならない。バラモンよ、このようなことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸々のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが〔目ざめた人々〕の生活法なのである。
全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽くし悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。」
そう、托鉢というのは、一般の人がお布施をする(功徳を積む。欲を離れるとか生命を大事にするとかの心を育てる種)機会を与えているのですね。だから、黙ってしばらく立っているだけ。功徳を積みたい(お布施したい。心を育てたい。功徳の種をまきたい)人はお布施しますが、そうでなければ他に移動する。ただご飯をもらって歩いているワケじゃない。もらってるのじゃなくて、相手のために受け取ってあげてる。
これぞ完全ボランティアですね。
相手の徳になるようにと。謙虚で思いやりのあるお釈迦様です。
『死後はどうなるの?』(アルボムッレ・スマナサーラ著)を再読しました。面白かったので少し紹介。
仏教では閻魔大王というキャラクターは成り立ちません。
すべては因果法則、自業自得(悪因悪果、善因善果)なのですから。
誰も(えんま様も。神様でも)人を裁けません。自分の心によって必ず結果が出るのです。(最後の審判も何もない。ただ結果が出る、相応のところに輪廻してしまうだけ。ちなみに、永遠の命とか魂とかもない。全ては生滅変化し寿命があって解脱しない限り輪廻する。)
(日本では法律によって裁判にはかけられます。でも裁判官が裁くのではなく、法律が裁く。人は人を裁けません。裁くのではなく、人に必要なのは慈悲の心です。)
けれど、道徳を教えるためのえんま様のストーリーがあるそうです。ちょっと紹介します。
>人が死んだ時、正義の味方である正しく法を守っている閻魔さまのもとへ行くのです。すると、「きみはなぜこちらへ来たのかね?」と問われます。「きみは何かひとつでもいいことをしたことがあるかね?」残念なことに、その人は思い出せないと答えます。
>えんま様はさらに尋ねます。
「私はね、地上に四人の天使を送っているのだよ。彼らを見たことがないのかね?」と。
死者は見たことがないと答えます。
「きみは人が生まれるのを見たことがないのかね?輪廻がたいへんな苦しみであることを見なかったのかね?善行為をするべきだと思わなかったのかね?あれが私の送った天使だったのだよ」と。
二人目の天使は病人。三人目は老人。四人目は死者でした。
「きみは死んだ人を見なかったのかね?・・・あれが天使なんだよ。きみもそうなるのだ、徳を積むのだ、悪をやめなさい」と。
えんま様は、
「私にはどうすることもできない。助けられないのだよ。すべてきみが自分で積んだ悪業なのだから。自分自身で報いを受けるだろう」
と悲しく顔を背けるのだと、仏教的なストーリーをつくっています。(中部138天使経)
子どもに話して聞かせてあげてもいいですね。聞きやすいけど内容はふか~くてとても大事なことです。(閻魔様は裁けないのですね。それに、やさしい)
赤ちゃんはものすごく苦しんで生まれてきてるのですね。生まれること、生きることは「苦」。で、死ぬまで「苦」の連続。人間には楽もあるけど、苦の方が多いのがふつう(業による)。人生が苦なのは当たり前なんですよね。病気にもなる、老化もする、そして最後には必ず肉体は滅びて死んでしまう。愛するものとの別れは必ずある(執着、愛着の心による苦しみ)。
四つの天使とは、「生老病死」なんですね。四つの苦が四つの天使。苦をきちんと見ることが大事ってことですね。
人間のこと、輪廻のこと(業、因果法則)を理解すると、輪廻してしまうのはできればやめたいと思います(輪廻から解脱したい)。そのためには、悪を犯さず、善行為をし、心を清らかにして、徳を積むしかない。生きることに「執着」するのも煩悩。
愛する人や物と離れたくないという「執着」は苦しみのもとなのです。(これがあるから人間をやっているんだとも言える。でも、執着しすぎると餓鬼界に生まれてしまう。むむむ~)
すべての煩悩をなくさないと、輪廻してしまいます。
でも、今の人生で解脱は到底無理だろうから、できればもう一度、人間に生まれればいいなあと思います。天界だと、ず~と楽しんでないといけないから解脱の修行ができないらしい(善業が尽きたり、楽しみばかりで飽きたら寿命が尽きるらしい)。修行できるのは人間の間だけ。だから、天界の神々は、寿命が尽きたら人間界に生まれたいって言うらしいですよ。
人間界でも天界でも梵天でも(ムリ無理)いいんだけど、餓鬼界や畜生界には生まれたくないなあ、キツイ。地獄だけは絶っっっっっっ対に避けたいです。やっぱり、人間界に生まれて”修行し直し”かな。人間の寿命は天界に比べたら一瞬といえるくらいに短い。今のうちに少しでも、いい人間になっておきたいです。すべては「修行」です。(でも修行はけっこう楽しいんだな)
死んだ瞬間に生まれるのだそうです。肉体の縛りがなくなったら、心のエネルギーは光のようにものすごく自由に、どこへでも行けるらしい。そこで、また物質と結びつけば肉体を持つ生命になる。結びつかない場合もある・・・。(仏教って、科学的でおもしろいでしょ?)
いじめに負けてはいけない。
お釈迦様の教えから言うと、「怒らないことで怒りに勝つ」つまり「いじめないことでいじめに勝つ」ということになるでしょうか。人はいじめても、私はいじめない。人は怒っても、私は怒らない。人は暗い気持ちに負けても、私は暗い気持ちに負けない。慈悲の気持ち(←無敵)、明るい気持ちで生きるゾ!ってね。
いじめられる子供には二つのタイプがあるそうです。
1.「いじめられてしまった」と悲観的になる子供。
自我が強くて傲慢なタイプ。被害者意識が強い。
2.家でも気が弱い子供。
家庭で「逆境、困難に立ち向かう勇気」を称えていない。「生きることは、日々闘いだ」と教えてない。
いじめる子供にも二つのタイプがある。
1.愛情が不足している子供。
不満がある。愛情が足りなくなると人間は怒りが出てくるので暴力的になる。
2.仲間で生きることを知らない子供。
親が「お互いの関係で物事は成り立っているのだ」という当たり前のことを教えていない。「自分がいちばん大事」「自分がよければそれでいいのだ」と、協調性がなくていじめる。
攻撃されたら、「頭を使ってやり返す」「自己防衛する」こと。その技術を身につけ、安全に訓練する場が学校です。怒ったり、暗く落ち込んだりしてないで、「頭を使う」のです。やり返すのは”怒り”ではないのです。(怒ってはいけません。うまくやり返す、頭を使って対応するのです)
先生は「何があっても、どんな子にも平等に、親切に」などではなくて、「それぞれの子供にあった対応」をしなければいけない。
この社会はどうしようもなくおかしいので、システムを変えようとしても無理ですから、それぞれが自分の仕事(役割)だけやって、そこだけはしっかりと変える。先生は先生の、親は親の、学校は学校の、警察は警察の。個人個人がしっかりやる。子供も子供でね。
この世は、何でも苦しいのです。人生はサバイバルゲームなのです。
怒りで病気になる前に、しっかり教育(トレーニング)しておくことです。
とはいえ、今困ってる人への具体的なサバイバル方法も紹介されてます。(長老、けっこうユニークですよ)
※「キモい」「汚い」「臭い」と言われる
→格好良く美しくなるように、色々やってみる。鏡でもよく見て、自分なりに気を配る。(「どこが?」と尋ねる。「言ってくれてありがとう」て言う。しつこくいう奴には「これ以上無理」「見ないで、近づかないで」と自分が離れる…これ、まるちゃんのアイデア)
※持ち物を汚物のように扱われる
→「何も匂わないよ。あなた蓄膿症じゃないの?」などと言い返す。(人間には弁解する権利がある) 「ダサイ」「不細工」と言われたら「視覚障害ではないか」「色盲ではないか?」と言い返せばいい。相手が誰だろうと、相手と自分は1対1の対等。冗談みたいに間接的にからかって…口達者になる。
※無視される
→一人ぼっちで仲間がいないなら、やりたい放題やればいい。無視されたら、それを逆手にとって、好きにすればいいのです。一人の時間を有効に使って何か学ぶのもいい。そもそも、性格の悪い友だちなどいらない。
※「チビ」「デブ」と言われる
→(一人一人違うという)事実を認める。気にせず一緒に過ごす。デブが「チビ」と言うなら、「一緒に座るとベンチが傾くからあっちに座って」とかデブに言いながら楽しく過ごす。
※机に「死ね」と書かれた紙が入っている
→紙切れに「死ね」と書いて、みんなの机に入れて回る(みんなに同じことをして、やられた人の気持ちをわかってもらう)。先生が無視するなら先生にも渡す。わら人形を持ってきて「私に死ねと言う奴を呪ってやる」とか言う。
※友だちが一人もいないと笑われる
→「お願いされてもお前とは友だちにならない」「友だちに適した人間がいないんだ」とか言い返す。別のクラスとか下の学年の子と友だちになる。
※「お前なんか、仲間じゃない」と言われる
→無理をして仲間に入れてもらう必要はない。気が合わない人とはほどほどの付き合いで充分。気の合う友だちは一人二人で充分。
※蹴られる
→異常者です。犯罪ですから、適切な罰を受けるべき。先生も厳しく対処するべき。
そういう人間には近づかない。
※「いじめられるのは自分のせいだ」と責める
→他人が言うことをいちいち真に受けない。そもそも、性格がいい人は人をいじめたり責めたりしない。人をいじめる人間は性格が悪いのだから、そんないいかげんな人に「キモい」とか言われても「最低なあなたに嫌われてよかった」と喜べばいい。
※「いじめた人を殺したい」と考える自分は最低だと思う
→考えすぎ。下らないことを考えるのではなく、何かする。勉強でもゲームでもスポーツでも、オタクになればいいのです。子供時代はあっという間に終わります。
「いじめじゃないか?」「訴えてやる」と大声で叫ぶ、職員室に座り込む、警察に行くetc、方法は色々と考えられます。やられっぱなしではいけません。
>自分は自己防衛のサバイバルゲームをするのです。降りかかった火の粉を振り払うのであって、火を消そうと思わないことです。個人が「いじめ」という社会現象と闘ってはダメです。闘ったら負けるに決まっていますからね。
>面白く、ユーモアでやればいいのです。
こういうのを考えてたら、暗くならないと思う。
みんな、元気だそう!! (「自殺と『いじめ』の仏教カウンセリング」より)
以上おしまい。お疲れ様でした~^^