論語シリーズもそろそろ最終回かな。
仕事でよく言われる「マーケティング」「イノベーション」という言葉ですが、(会社人でない私は関係ないと思ってましたが)論語の精神と大いに関りがあるようです。
マーケティングとは「市場調査」ではなく、
社会の中で自分たちが何を必要とされているか、を知ること。
それを理解するための唯一の方法は、
自分がやっていることをよく見て、その結果がどうなったかをよく見ること。
最も重要なマーケティングの資源は、トラブルである。
トラブルに正面から向き合うことが、イノベーションの鍵を与えてくれる。
それゆえトラブルを隠ぺいする組織に将来はない。
(隠ぺい、、、最近よく聞く言葉ですね)
イノベーションとは、新しい商品を生み出すことではなく、まして「新結合」などでもない。
人的物的資源に、新しくより大きな「富」を生み出す「能力」を授けることである。
それは、マーケティングによって得られた知識に従って、自らを変革することではじめて可能になる。
自分のあり方を変えることがイノベーションの本質である。
自らの行いをよく見て、自らのあり方を変える。
つまり、
「マーケティングとイノベーション」=「学習」
組織は、経営者がその人格を掛けて誠実に運営することで始めて動く。
よき経営者は「君子」でなくてはいけないのです。(人生の経営者という意味では、みんな君子でありたい)
ドラッガー曰く
「利益」はビジネスの目的たり得ない。
ビジネスの目的は「顧客の創造」
顧客とは、自分を必要としてくれる人のこと。
マーケティングとは、何が必要とされているかを知ることであり、
イノベーションとは、自らを改めて、人に(社会に)必要とされるようになることである。
さて、現代日本社会はいろいろな組織において、大変な閉塞感に覆われ苦しんでいるように見えます。
それはなぜか?安冨先生は、
それは我々の社会が君子を欠いており、経営者が小人によって占められているからであり、
「和」が失われて「同」と「盗」とに覆いつくされているから
と言われます。なぜ社会に君子が欠乏しているのか?
第一に、心のまがった者が組織の指導者になっているから。
今の歪んだ社会では、心のまっすぐな者が、エリート大学を出てエリート企業や公官庁で出世する可能性はほとんどない。
第二に、あまりにも多くの人々が、心の曲がった者に支配された組織の偽装工作によって日夜働かされ(働きすぎてゆとりがない)、
あまりにも多くの人々が結婚出産という幸福の偽装工作によって(見せかけの幸福)、
あまりにも多くの子どもが「三年の愛」に恵まれない。
よって「孝」が生まれない。それゆえ「仁者」が現れない。
仁者、君子を組織の長にしよう。
子どもを守ろう!
押し付けるのをやめよう!
学習しよう!
仁者、君子を育てよう!
論語で大事なのはやはり「仁」でしょう。ドラマ「仁」もよかった
自分なりの理解では、「仁」とは
つねに学習の構えができている。すべての物事から学習しようとする柔軟な心をもっている状態や態度。いつでも聞く耳があり、謙虚で、物事をよく見て、自分を向上させ続けようという態度でいる、それが「仁」なんだと思います。
もし「勉強」を「勉めることを強制する」と読むならば、「仁」は勉強ではなく「学習」でなければならない。
学習の過程が開かれた状態や態度が「仁」。
外からの強制や押し付けではなく、自ら心を開き、自ら気づき、自分のあり方を変えていく。
変わり続けることを喜びとする。これは「無常」だからできるのですね。
では、安富さんの著書から、、、
仁者は憂えず
自分と周囲が正しく構成されて、内にも外にも憂いがない状態が「仁」
なぜ仁者は憂えないのか?
「仁」の回路が適切に作動していない人がいると、
その人が他者とコミュニケーションをとろうとしても、
そこに「礼」の回路が作動しないため、調和を創り出すことはできない。当然そこには「和」も生じない。
仁者は周囲のコミュニケーションを正しく統御し、
自らと共に周囲の人々の学習過程の作動を常に活性化させている(仁)、
すると「和」が生まれ、
そこにおけるコミュニケーションは「礼」にかなっている。
人間関係が良好になるので憂えることがなくなるのですね。
人が「忠恕」の状態(仁)にある時、そこにたどるべき「道」が見える。
この「道」がはっきりと見えないのが「惑」という状態である。
惑いがなく、「道」がはっきりと見えている状態が「知」である。
「道」がはっきりと見えていれば、そこを歩けばよいのであるから、何も恐れることはない。この恐れぬ心が「勇」である。
人々がこのまっすぐな「道」を歩む時、社会に秩序がもたらされる。
人が本来の感覚に従う(恕)とき、そこに秩序が生じる。
学習停止という悪の連鎖を断つことが、社会の安定にとって大切なこと
怒りを遷(うつ)さず
人にひどいことをされた場合に、それを直ちに自覚し、その当人に対してのみ怒りを向け、他の人に向けたりはしない
これは君子にしかできない。
いかなる状況においても、学習過程を維持することでのみ実現される。
さらに上の状態が寛恕。怒りがない状態。(個人的にはこちらになりたい)
八つ当たり、弱い者いじめの問題、最近多くないかな?
圧力、押し付け、自由という名の弱肉強食の競争を押し付ける社会(←不自由)。今の社会が息苦しいことの現れではないかと思います。
英語教育やらIT教育やら”道具”の使い方よりも、押し付けられない人間教育が大切なんじゃないのかな?
儒教というと、「親には孝行しなければならない」「目上の人には従わねばならない」など、堅苦しい上下関係の教えのイメージがあったのですが、それはただの勝手なイメージだったようです。
その人となりや、孝悌にして、好く上を犯す者は、鮮(すく)なし。
好く上を犯さずして、好く乱をなす者は、未だこれ有らざるなり。
その人となりが孝行悌順であり、よく目上にさからう者は少ない。
よく上を犯さずして、よく乱を作(な)す(本当の意味での調和をもたらす)者は、未だかつてない。
「よく」というのは「うまく、見事に」という意味。
主君の間違った判断を変えてもらうのが目的であるから、なるべく怒らせないように、うまくやらないと危険であるし、意味がない。
諫言は必要。でも上手にできる人って少ないよね。
イエスマン、ご機嫌取り、忖度ばかりではダメってことですね。
では、どう上手に上に仕えればいいのか。
能を以て不能に問い、多きを以て寡(すくな)きに問い、有れども無きが若(ごと)く、実つれども虚しきが若(ごと)く、犯せども校されず。昔者(むかし)、吾が友、嘗(かつ)てここに従事せり。
能があるのに(謙虚で)、能がない者にも問い、
多くを知っているのに(謙虚で)、少ししか知らない者にも問い、
功績があっても(誇らないで)無いかのように振る舞い、
実があるけれども(誇らないで)虚であるかのように振る舞い、
それゆえ、上を犯しても刑罰を受けたりなどしない。
昔、吾の友は、かつてそうのように事に従っていた
(ちなみに、「校」は木を格子状に組み合わせたものを意味する。つまり、牢獄や手かせ足かせ!学校は学びの牢獄なのか??)
親に愛され親を愛している幸福な人は、親が間違ったことをしていると思えば、「それはおかしいよ」と言える。そういう人は主君に対しても、同じようにできるでしょう。それがよい関係といもの。
「孝」というのは、親子関係が親密であって本当に慈愛に満ちているときに生じる、子どもの自然な親への感情のことである。
親の慈愛がなければ、子の孝はない。
なので、親”孝行”は子どもの”義務”ではない。
義務とは言えないが、親から「三年之愛」(生まれて三年たって親から離れるまでの愛情)をしっかりもらった子どもは、人情として「孝行」したくなる。
そして、親から「慈愛」「恩」を受けたという事実を事実として受け入れることができたとき、恩返し、孝行をするということは当然のこととなるのでしょうね。それは、ただ従うことでも手かせ足かせでもない、もっと自由な関係だと思います。
自分の人格を高め、
上司に対しても、親に対しても、よい人間関係を築きたいものです。
自分に嘘をつかない。他人にも嘘をつかない。これはとても大事なことです。
嘘をつくな、都合のいいように言い換えるな、ごまかすな、すり替えるな、印象操作するな(安冨さんは「東大話法」と名付けてます)、、、正直であれ。
ということなのでしょう。
原発
「安全」でないなら「危険」と呼ばねばならない(「”直ちに”影響はない」??)
「事故が起きた」なら「事故が起きた」と呼ばねばならない(「事象が発生した」と言うな)
「爆発」が起きたなら「爆発した」と言わねばならない(「爆発的事象」と言うな)
「停止しない」なら「停止しない」と言わねばならない(「停止状態には入った」??)
侵略を「聖戦」、自爆攻撃を「特攻」、全滅を「玉砕」、自国を「神国」、、、などと誤魔化さない
怖いものは怖い、嫌なものは嫌、好きなものは好き、やりたい事はやりたい、やりたくない事はやりたくない、死にたくないなら死にたくない。
このように「名」を正しく呼ぶことが、人間がまともに生きるための第一歩なのである。
過ちて改めず、これを過ちという。
これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らざるとなす、これ知るなり。
君子は其の知らざる所に於いては、蓋闕如(かつけつじょ)たり。
君子はよくわからないことについては、口をつつしむものだ。
名正しからざれば則ち言順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち禮楽起こらず。
名が正しくなければ、言葉が事態に順応しない。言葉が事態に順応していなければ、仕事がうまくいかない。仕事がうまくいかなければ、礼楽が興らない。
楽とは音楽。音楽は大切。音楽を通じてその人の心の傷が明らかになるから。
(明らかになることで心が癒されるのですよね)
君子、其の言に於いて、苟(いやしく)もする所なきのみ。
君子はその言葉において、いい加減にすることはない。
(世間の、特に権力を持つ)小人に騙されないようにしなければいけないし、
自分も君子であるよう、常に学びの心を保ちたいと思います。
お釈迦様にしても、孔子様にしても、人々から尊敬される人の言われることは、生きる上でやっぱり為になるなあと思います。
漢文は難しくて全く興味がなかったけど、安冨さんの本を読んで、大事なことを言われてるんだと気がつきました。
禮を以て節せざれば、亦行う可からず
礼をもって節しなければ、うまくは行かない
節するとは、調和をもって安定を実現するという意味
「信」とは
言葉への信頼
言葉とその人の心とが一致していること
「義」とは
道に従っている状態にあるときに見える為すべきこと
「知」とは
為すべきことが見えているなら「知」である
「仁」とは
学習過程が開かれていること
「忠」とは
そのときに達成されている自分自身への信頼
「恕」とは
他者への関係性において自分自身のあるがままである状態が貫かれていることが「恕」。この状態にある人は、自らの進むべき「道」を見い出し、そこを進むことができる。
この「道」をたどっている状態で出逢う出来事において為すべきことが「義」
「仁」の状態にある者同士の、調和のとれた相互作用が「和」、そのときに両者の間で交わされるメッセージのありかたを「礼」という。
理不尽な攻撃に対してできるもっとも合理的な反撃は、、、
恭しい態度で、誠実に、しかしきっぱりと、その攻撃の理不尽さを明らかにし、なぜそのようなことをするのか、理由を丁寧に尋ねる。恭しく礼儀正しい態度が必要。
(なるほど、確かに。個人的には”流す”ことも大事だと思います)
自立するためには、本当に頼りになる人を見いだして頼ることも大切。
(縁ですね)
義を見てせざるは勇なきなり。
君子、義以て上と為す。
君子、勇ありて義なければ乱を為す。
小人、勇ありて義なければ盗を為す。
「盗」とは、人を裏切ること
「乱」とは、人と人との信頼関係を前提として戦わされる意見や方針や考え方の相違をめぐる闘争(これは君子であれば「和」とつながるものなので、ある方がよい。揉め事を恐れて意見を押さえつけるのは「同」である)
君子は和して同ぜず。
誰とでも仲良くしなくちゃいけない、ということではない。
空気読んだり、言われるままに流されてちゃいけないってことだね。
深いねえ、、、
「失礼な!」「礼儀知らず」などという言葉を聞くことがありますが、そもそも「礼」って何だろう?わかって使ってますか?
「何が礼で何が非礼かを常に探求する態度」がすなわち「礼」である。
(つまり、何か決まった型があるわけではないということですね)
「礼」の内容とは、「学習の過程そのもの」
AB二人が相互に学習過程を作動させており、「仁」の状態(聞く耳を持ち学びの状態)にあるなら、Aの投げかけるメッセージをBは心から受けとめて自己を変革し、そこから生まれるメッセージをAに返し、Aもまた同じことをする。このときの両者の間のメッセージの交換は「礼」にかなっている。
「和」と「同」
違う人格がそれぞれに把握している「意味」が、相互に一致しているかどうかなど、原理的にわからない。そのわからなさを無視し、互いに「同じ何かを共有している」という思い込みを形成するのが「同」
小人は「同」がなければ不安でたまらない。
しかし、君子はこのようなことを必要としない。人は人、自分は自分である。人が自分の考えを共有してくれているかどうかなど、問題とならない。それはそもそも不可能なことだからである。それゆえ、君子の交わりは、相互の考えが一致しているかどうかなど問わず、むしろその相違を原動力として進む。
こうした相互の違いを尊重する動的な調和を「和」という。
自分の都合のよい何かを押し付ける。これは「同」。
表面上、どんなに礼儀作法を守ったとしても「非礼」である。
対話する双方が共に学習過程を開いているなら、そこには「和」が存在する。そのような状態で取り交わされる行為は、それが対話であれ、舞踊であれ、儀礼であれ、「礼」にかなったものとなる。
礼にとって何よりも貴いのは、個々の振る舞いが約束事にかなっているかどうかではなく、そのやりとりの全体が「和」の状態にあるかどうかである。
和が礼の本質である
何かを”強制”したり”押し付け”たりするのは失礼だということですね。
礼儀正しい人というのは、謙虚で常に学びの構えをもち、和やかな雰囲気をもっていると思います。(そして安易に他人に流されない落ち着きがある)
子曰く、
君子、重からざれば則(すなわ)ち威あらず。學びても則ち固ならず。
忠信を主とし、己(おのれ)に如(し)かざる者を友とする無かれ。
過(あやま)ちては則ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ。
先生は言われた。
君子たるもの、もったいぶって重々しくなどせず、それゆえ、威張ったり威圧したりはしないものだ。学んでも、自分でよく考えて、固陋(ころう)にならぬように。
まごころに従い、言葉を心に一致させる人と交わり、ありのままの自分でいない者を友達にしない。
過ちがあればそれを改めることに躊躇してはなならない。
過(あやま)ちては則ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ。
過ちを犯した時の対応の仕方でその人が「仁」であるかどうかがわかる。
学習の構えができているかどうかが、「仁」と密接に関係している
世界とのやり取りの中で、自分のあり方の変更を恐れないことが、学習の大前提である。
小人は、自分の過ちを認めてしまうと、全人格を否定されたように感じる。それゆえ、素直に過ちを認めることができず、「言いわけ」をする。
自分を常にモニタリングして、人の言うことに耳を傾け、自分の間違いに気づいたら、直ちにそれを受け入れ、更に自分の行動を改める、これが孔子の追求する人間としてのあり方の根幹にある。
君子は器ならず
君子は状況に柔軟に変化するので、固定した器ではない
夫子の道は忠恕のみ
君主には率直に考えを述べ、君主が立派に政治をすれば協力するが、そうでなければ協力しない
何があっても君子に付き従うのは、不忠である
道を以て君に事うるなり。不可なれば則ち止む
道を以て君主に仕え、道が行われないならば、さっさと辞職する
たとえ君主を相手にしても、自分の心を偽らないことが忠である
忠にして信
他人と交わるときには自分の心に言葉を一致させて、二枚舌を使わない
「自分がまえに述べたこととつじつまを合わせるのではなく、その時点において、自分にとって真理であると思われるところに一致させることである」(ガンディー1997)
己(おのれ)に如(し)かざる者を友とする無かれ
如己は如心(=恕)の書き間違いではないか(安冨さん説)。
忠信に従う者に親しみ、恕ならぬ者を友としない。
または、己のままざる者を友としない。そういう者は自分自身を偽って飾り立てるから
顔淵(がんえん)、仁を問う。子曰く、
己(おのれ)を克(こく)して禮(れい)に復す、仁と為す。
自分が無意識にしてしまった間違った行為を恥じ、自分自身のあり方に向き合い、己の魂の隠された傷を明らかにし、悲しみ、さらにそれを乗り越えることで、礼にかなった振る舞いができるようになる、こうすることが仁だ。
このような行為は自分自身でするしかない。
己のままに生きないで、うわべをとりつくろっている者は、克己しない
克己・・・己を彫り刻むようにして、自らの在り方を作り変える行為
「克」木を彫り刻む器の形
人は往々にして無意識の衝動にかられて間違った行いをしてしまう。自分のその無意識の作動に気づき、それを認めてはじめて行いを改めることが可能になる。言うまでもなく、無意識の部分を意識するのは容易ではない、それは、自分自身の認めたくないつらい記憶と向き合い、恥じて、悲しみ、乗り越える行為である。これは厳しいことであり、己を彫り刻むようなつらさを伴っている。
君子は誰よりも謙虚なものである。
常に自分自身に向き合い、学ぶ姿勢をもち、柔軟である。
子曰く。由(ゆう)や、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。
これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為す。
これ知る為り
先生は言われた。由よ。お前に「知る」ということを教えよう。
「これを知る」は「これを知る」とし、「知らない」は「知らない」とする。
これが「知る」ということだ
「知」とは、「知っている」ことと「知らない」ことを峻別することで新たな「知」を創り出す、回路の作動、運動をいいます。
知と不知の分別の過程が「学」であり、
それが自らに跳ね返って「知」が変貌する瞬間が「習」
「知らないものがある」と認識することで、探究の過程が始まり、新しい知識状態に向けて遍歴することが可能になるのです。
いつでも常に「学習の構え」ができていること(こういう人が仁)
素直に正直に
「知らないことを知らないとする」
ことが重要です。(無知の知ですね)
そして「知らないこと」をそのままにせず、「知ろうとする」ことが「知る」なのでしょうね。
(これって、”自称”知識人や”偉い”人、エリートの人ほど苦手な傾向がありませんか?つまり、頑固、保身や見栄、エゴが強い)
学ぶとは
子曰く
『学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し
思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し』
学んで、考えなければ、とらわれてしまう。考えるばかりで、学ばなければ、あやうい。
「罔」とは心が網に掛けられて身動きがとれない状態。何かにとらわれて、がんじがらめになって身動きがとれない状態。
学ぶだけではいけない。それでは学んだことに「拘束」されてしまうから。(鵜呑みにしたり固執したりせず、自分でやってみたり観察したり疑問に思ったりよく考えたりしなければいけませんね)
学ぶというのは、危険な行為なのである。(気をつけないと洗脳、マインドコントロールされてしまいます)
「習」とは、後天的に身につくということ
『学んで時に之を習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)有り、遠方より来(きた)る、亦楽しからずや。
人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや』
何かを学んで、それがあるときハタと理解できて、しっかり身につくことは、よろこびではないか。
学んだことが、それだけでは身につかず、時を置いてあるとき、ふと「ああ、これか」「こういうことだったのか!」「わかった!」と身についている。そういう風に人間は学習するものであり、そのときに喜びを感じる生き物である。
(”がんばって”復習しなさいということを言っているのではない)
温故知新とは
「温故」はまさしく、すでに知っていることをじっくり身につけることであり、「知新」はそこから新しい意味を見いだす、という意味である。それが「学習」なのである。
『朋有り、遠方より来る、亦楽しからずや』
これは「学習の過程」の比喩的表現。
学んだことの「本質」との出会いは、突然、遠くから昔からの知り合い(朋)が訪ねてきてくれたように楽しくて嬉しくてたまらないね。
『人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや』
他人が知らないからといって、「こいつ、わかっとらん!」などとブチ切れたりしない。それはまったく君子ではないか。
学習過程が開かれていることが、君子の条件である。
それが停止している人を「小人」という。
そして、
君子が社会の中枢を担っていることが、社会秩序形成の基礎である。
『君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風を上(くわ)うれば、必らず偃(ふ)す。』
君子の徳は風で、小人の徳は草である。草の上に風が吹けば、必ずやなびく。
君子がいれば、周辺の小人はそれに感化されて学習過程を開く。こうして社会に秩序が生まれる。これが「徳」による統治である。
→人の振る舞いが「礼」に適ってくる
→徳に満ちている状態が「仁」学習過程が開いている状態が「仁」
仁者は心がいつも安定しており、自分自身であることを失わない=「忠恕」
仁者が発信する言葉は、その人の心から乖離しない=「信」
常に学び続ける人はすでに仁なのだと思います。学び、「本質」に気づく(習)。これを止めないこと。押し付けや強要はいらない。
仁者でありたいものです。
論語で最も有名な言葉のひとつであるこの言葉ですが、普通は
「自分がされたくないことは、人にしてはいけない」
と解釈されていると思います。
ところが、これ、安冨歩先生(東京大学東洋文化研究所教授)によると、
「自分がやりたくもないことを、人にしてはいけない」
ということなのだそうです。これを「恕」と言います。恕も「思いやり」とか「やさしさ」という意味かと思ってたのですが、
「自分の心のままに」「心の如く」ですね。
心のままにやりたい放題せよということではなく(迷惑や失礼になる)、「したくないことはしない」ということ。否定であることに意味がある。
実際、いじめっこに”命令されて”誰かをいじめてしまったとしても、「やりたくなかったんだけど、やらないと自分がやられるから仕方がなかったんだ」という言い訳はできません。「やりたくないならやらなければいいでしょう」ということです。結局、自分の保身のためと思ってやったんでしょ?”やるという意志”が全くなかったらできないだろうし。やりたくないら、やらなきゃいいんです。
「親切」にしても、したくもないのにやったって、そんな優しさも思いやりもない嫌な心のままされたくはない、心は伝わる。親切なやさしい心があるならその心の如くすればいいし、嫌だと思うならその心の如くしないほうがいい。
勉強だって仕事だってなんだってそう。やりたくない、嫌ならその時はやらないことだね。人を言い訳に使わない。自分がやろうと思うか思わないか。自分の事なら自己責任、自業自得(善因善果、悪因悪果)。
そもそも、自分の心に背くのは苦しいことです。
「自分がされたくないことを」だと、それが何なのかわからない人いるよね。自分がされたくないことと人がされたくないことって、同じとは限らないし(かまってほしい人と、かまってほしくない人とか)、、、て、ちょっとモヤモヤしてたので、スッキリしました。わかりやすい。
子貢(しこう)問うて曰(いわ)く、一言(いちげん)にして以て終身これを行うべき者ありや。子曰(のたまわ)く、
其れ恕(じょ)か。
己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ
子貢が尋ねた。
「一言で、一生行うべきことを表現する言葉はございますか?」
孔子が答えた。
「それは『恕』かな。自分がやりたくもないことを、命令だからとか仕方ないからとかいって、人にやってはならない。それが『恕』だ」
(「超訳 論語」安冨歩 編訳)