教員時代 私は通知表の所見欄を書くのが苦手だった
新採時代にそう指導されたのか 勝手に思いこんでいたのか 通知表は客観的な(主観が入ってはいけない)物であるべきだと思っていた
しかも人間が未熟で自信がない 文例集をみても 当たり障りのない 味気ない物ばかり・・・
各教科の欄(とくにテストではかれる項目・・しかしこれもまとめきれない計りきれないと思う)はまだしも、総合所見欄などは どう客観的に書こうにも主観にしかならない(当たり前のことなんだけど・・・)
子どものよいところを「客観的」に書く この矛盾・・ 「よい」と思うのは教師の主観である それをさも客観的に判断したかのように書く、この気持ち悪さ 違和感・・ これは私の「客観的でなければならない」という思いこみからくるものだったのではないか
通知表はひとりの人間である一教師が あくまで自分の主観に基づいて書く物である 主観でしか書けない物なのだ
だとしたら、思いっっっっ切り「主観」に基づいて書けばいいのだ 自由に
「通知表は 親や子どもへの ラヴレター」
だと思って 思い切り自由に 思い切り主観的に書けばいい
(“ラヴレター”これは友達から教えてもらった。いい言葉だ)
通知表は客観的な 絶対的なもの(とまでは思っていないにしても)と思ってしまう保護者がいるかもしれないので、前もってお手紙とかで 「通知表(所見)は担任の個人的な見方ですから、たくさんの見方の中のひとつ、データのひとつくらいのつもりで気楽に見てください」などと、お知らせしておけばいい。「数値化できないものも主観です」と。
管理職も、そのつもりで細かく直さない。(担任の主観なんだから)
「私は・・さんの~なところが大好きだ」「誰が何と言おうと~は・・さんのよさなんだ(私の主観ですが)」「今は~だけど、~のように考えたらちっとも気にすることはない。かえって将来~かもしれない」「1学期は~と書いたけど、~のような見方もできるかも。(人間は変わるものだ)」etc・・・
親や子どもも データは多いほうがいいので 担任以外のデータも集める努力をしたほうがいい
ちなみに 指導要録の「行動の記録」は本当に必要なのか?思い切り主観的なものだし、大きなお世話。 あ、でも、これも思いっっっっ切り主観で書けばいいのか
先日 友達と話をしていて盛り上がったのが「理想の職員会議」
「理想」や「夢」を妄想?するのは実に楽しい (あまり「期待」すると苦しいので かる~く楽しむのだ が、切実なところもあったりする・・・)
あこがれの人物や職業などになったつもりになったりして楽しむのもいいねえ・・・
で、盛り上がったから「ブログに書け」というので 思い出しながら書いてみようかと思う
まず、部屋だが机は取り払う できれば畳でみんなが入れるこたつとかあるといいかな 一応メモを取ったりできるスペースもいるがあまり離れないですわれる広さ 互いに近い方がいい 座椅子とかあると楽でいい
席順はランダムばらばら 校長席とか教頭席とかは無し 同じ意見の人で固まらない お菓子やジュースコーヒーなどを用意すること(酒は思考が鈍くなるのでダメ)
服装は自由 どてらにジャージでもきらきらのファッションでも派手でも地味でもなんでもあり ホーム着がよければパジャマでも
互いに名前はニックネームまたは下の名前で呼ぶ 校長とか教頭とか先生とかつけたら罰金
話すときは敬語を使わない ため口で 方言のほうがいい(普段からそうすることにしておく 校長も教頭も年上も ~ちゃんでいい とにかく気軽に何でも言えること)
今日明日締め切りの仕事は必ず終わらせてから参加する というかどうでもいい事務仕事は無くす(管理するための調査、報告書とか 事務職員をもっと増やして教員に回さなくてもいいようにするとか 二重三重の書類はまとめるとか)会議に集中できるようにフリーな状態で参加する(ことができるように いらない事務仕事を減らす しつこいが・・・)
形式的な校長の話とかまとめとかやめて、すぐに本題に入る 発言したい人は手を挙げて自由に発言する(校長も)
議題は1週間前までに配り 各自自分の考えをもって参加すること
誰がどんな意見を言ってもよい つまらん揚げ足取り(言葉の間違いとか)をしない つまっても訂正しても考えが変わってもよい 自分と違うからと言って批判しない 建設的な意見を言う 人がしゃべっている時にはだまって最後まで聞くこと
終わりの時間を必ず守る
こんなもんだったかな 勝手に付け足したのもあるけど・・・
いかがでしょう