先般、日本から帰国した御存知jet師範からリクエストしていた上記3点セットを頂いた。フィリピンへ移住する際、「あーしまった、忘れた」のが耳かきで、こちらにある日本ショップで探してもどこにもないのだ。
綿棒を使用した耳掃除では耳かきのあの快楽は得られず、悶々とした日々を過ごしていた。
これで耳かきの快楽を再び手にして堪能することが出来た。jet師範、重ねて御礼申し上げます。
さて、床屋の2階へ住み着いて8ヶ月。この街で様々な人と出会ったワケだが、実は日本人となると大学生KAZUとラリーのオッチャンの友人で奥さんの実家があるカビテに住んでいる年金難民の爺さん2人だけだ。
カビテにいるファミリーの誰かが年金難民の爺さんを一緒に連れてオッチャンに会いに来たときオッチャンの紹介で爺さんと会った。爺さんは口数少ない人で、多分、人付き合いが苦手の頑固なタイプなんだろうな。
オッチャンによると勤めていたプレス工場の下請けで爺さんは弟と一緒に小さな工場を経営していた。オッチャンがまだ日本にいるころ義兄が食堂を開店したとき爺さんはフィリピンへ出向き多少の資金援助をした。
そして爺さんはリーマンショックで経営が悪化した工場を弟に譲渡し義兄の計らいでフィリピンへ移住した、つーことだった。爺さんと会ったとき「自営業の国民年金では日本で暮らしていけない」とボヤいていた。
そうだよな、月6万円そこそこではヤッテいけない。爺さんは一人暮らしだから日本にいれば孤独死と特殊清掃のお世話だけが待っている。年金と少子高齢化は日本の抱える政治課題で安心して暮らせる老後はない。
年金難民となってフィリピンへ移住して月6万円でヤッテいけるのか言えば多くを望まなければ充分ヤッテいける。爺さんはおばさんメイドを雇い下半身までは分からないが身の回りの世話をして貰い生活をしている。
爺さんはタガログ語なんて分からないけど、それでも既に2年暮らしている。フィリピンは建前として老人を大切にする国で、なまじタガログ語を学習してフィリピンの嫌な面を知るよりは今のままがいいかも知れない。
それからjet師範から頂いた耳かきで耳をホジホジしながら爺さんはリーマンショックで年金難民になったが今回の震災でも殊更年金難民や年金難民予備軍を多く生み出したんだろうな、なーんて思ったりした。
であるならば、年金難民の爺さんのように人知れず、質素に坦々と余生を過ごすのも一つの知恵だろう。
そんなワケで、プリンスもそろそろ自身の老後を考えなければならない年になったのだ。
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