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写真の「12日」日付はヨーロッパから来たばかりで気づかずそのままだった。
ヨーロッパ、中東、東欧、北欧など42カ国を走り終えて、オートバイをニューヨークに船で送った。オートバイがつくあいだ日本に一時帰国しよう。とケネディ国際空港でユナイテッド・サンフランシスコ行9:15分に搭乗していた。飛んでいたらどうなっていたか。となりのニューアーク空港から飛び立った同じユナイテッドサンフランシスコ行はハイジャックされていた。全面ストップで7日後に日本に帰国一カ月後に戻ってきた。
そして一カ月後。現場はまだ煙が上がっている。オートバイが到着したので南米に向かって走り出した。
自由の女神と女性・なにを想う
なぜ、アメリカは攻撃を受けたのか、アメリカホワイトハウスとアメリカ人は考えているのだろうが、疑問を持つ。まだ力でねじ伏せようと考えているのではないか。イラク攻撃(戦争)では大量破壊兵器・アルカイダとの関係もなかったと認めた。イラク国民やアメリカ兵の犠牲者に対してどう責任をとるのか。
責任取るどころかイラク攻撃・大量破壊兵器は「ある男(個人)」からの「情報だった」と言い訳しだした。アメリカは個人情報で動く国防省なのか。ごまかすんじゃない。またパキスタンの国に無断で入り込み「ビンラデン」を殺した。イラクもパキスタンも独立している国である。その国の人たちが決めて行くことが民主主義ではないのか。
民主主義の国と標榜しているアメリはうぬぼれていないか。これがテロを作りだしている原因ではないか。アメリカ人の旅する国はだんだん狭くなっていくことを実感する。カナダの若い女性が「アメリカは王様」と思っているからと話したことを「ほんとに」理解できる。アメリカ・ホワイトハウスの考えは逆算すればシナリオがわかるように最近なってきた。
ブッシュ元大統領・小泉元首相の「罪」のことについてはのちほど述べたいと思う。
2001年9月11日のこと
「9・11ビル爆破事件」
2001年9月11日火曜 はれ 快晴
ニュヨークマンハッタン・ユースホステルを朝5時半頃ケネディ国際空港に向かった。ヨーロッパ、中東、東欧、北欧など42カ国走ったあとオートバイをオランダからニューヨークに船で送った。オートバイが到着するまでの間約一年ぶりに一時帰国するためである。
きのう10日は午後すごい夕立になったがきょうは朝から快晴である。地下鉄Aライン電車に日本人スチュアーデスの人が前の座席に座っている、ロンドンに向かうと話す。夕べはオタワ州に向かうとゆう日本女性は寝過ごすかも知れないので眠らないでテレビ室で朝まで過ごすと話していた。ここのユースホステルは600人ぐらいtoまれるらしい。日本人だけでも30人ぐらいは泊まっていた。
ケネディ空港の駅についたことをスチュアーデスさんが教えてくれた。駅前のでかい駐車場をぐるぐるまわって飛行場に7時過ぎについた。カウンターで9時15分発ユナイテッド・サンフランシスコ行き(乗り換え)一番うしろの座席をとった。翼の上に座った時陸・海をなんにも見れなくて到着まで退屈で苦痛を感じた。それからは飛行機からいつも景色を眺められる一番うしろの座席とっているので今回もそうした。
よしこれでアメリカの道路や風景を眺められるぞ。8時40分ごろ機内に入る。夕べあまり寝ていないので眠い。9時15分出発時間をとっくに過ぎて9時40分頃なっている。遅れることはままあることなので気にしない。なんか「機内放送」しているがまったくわからない。二回目の機内放送で「ハイジャック」だけ聞きとれた。でもこの飛行機じゃないから関係ないだろうと内心タカをくくっていた。
しかし、満員の乗客は携帯電話で機外と連絡しているようであっちこっちで身振り手振りで周りの人と話している。その内機内から全員下ろされてロビーに向かった。ロビーにあるテレビ二台に乗客が群がっている。そのテレビを見て驚いた。高いビルの上層部から煙が出て燃えている。そのビルの隣のビルに突っ込んでいく飛行機が映っている。「あーこれは戦争になる」と一瞬頭をよぎった。
ビルに次々突っ込んでいく飛行機の映像が繰り返されていた。乗客の中から「BBC,BBC」とチャンネルを変えるような男の声。信用できるチャンネルなのだろうか。ビルが崩れる瞬間テレビを見ていた女性は頭を抱えて「オオー」と泣き崩れた。空港内にあったネットや電話はすべて満員。空港は「全面閉鎖」になり空港から「シーシー」とゆう感じで追い出された。
ちょっと「おれの航空券はどうなるんだ」だれもチケットのことなど聴いている人はいないようだ。仕方なく空港の外に出た。空港の目の前にはビル爆破の黒々した煙が長くなびいているのが見える。バスで避難するのだがどこに行けばいいのわからない。取り残される前に「とにかく乗ろう」あまり混んでいないバスに飛び込んだ。住宅街を走り、幹線道路は走らない。どこに向かうのかまったくわからない。
1時間ぐらいして終点についた。さてここはどこだろうバスターミナルのようだがまったく見当がつかない。「地下鉄の地図」を見せてもわからない。○○で番に乗って行けとか教えてくれ、うろうろしていると日本のおばさんが黒人の女性に二人に連れられて「助けてやってくれ」みたいなことを言われる「あんた、日本人ね、あーよかった」すぐに九州の人とわかる。わたしの佐賀弁にそっくりだ。
わたしの田舎佐賀・嬉野の隣佐世保の人だった「どうしたんですか」娘さんと一緒にきたが娘さんが具合が悪くて病院に行ったら「入院せよ」と言われた。(話せば長いので省略)その病院に戻りたいと話す。飛行場に行けばわかると話す。おばさんにきょう何があったのか知ってますか「知らないと言う」。実は今日ビル爆破事件があって地下鉄も飛行機もすべてストップしているんです。
バスの運転手さんに「ケネディエアーポート」まで「乗っけていってくれ」と頼んだ。運転手さんは「うんうん」とうなずいてくれたがはたしてうまくいってくれるか、心配だ。人のこと心配している場合じゃない。自分の今いる場所だってまったくわからないのだ。しかたない、またしてもどこに行くのかわからないバスに乗り込んだ。バスの中年の乗客にこのバスはどこに行くのか聞いた。
地下鉄の終点に着くとか教えてくれた。まぁいいや。そこまでいってから考えよう。今度も一時間ぐらい乗ってついたところは地下鉄の終点、プロ野球場があるところだった。朝から何も食ってない腹へってトイレにも行きたい中華街みたいの店でホッカホカ弁当みたいものを買って食った。不思議だったのはバスの中で事件のことなど話題にならないようだ。
あれだけの事件だったら日本では知らない同士でも「ひそひそ話」を必ずするのにそのような雰囲気がまったく感じなかった。国民性の違いだろうか、とても不思議であった。きょうは全面ストップなので早目に泊まるところを探しておかなければと泊まれないとホテルを探す。もう4時になる。立派なホテルは満杯、値段は聞かなかったが、おそらく2万円はする高層ホテルだった。
そこのホテルに安いホテルを聞いてみた、500mぐらい先にあると、そこに行くと「満杯でダメ」「アーアー」と思っていたら夕方6時に来いと話す。荷物を預けてもいいとのことで荷物を預ける。地下鉄が動き出しているようだ。ここは終点の駅のようだ。ホームに上がるとビル爆破の煙が見える。現場まで行ってみよう。電車の中で若い人にビル爆破の現場はどこで降りた方がいいのか聞く。
電車は途中の駅でストップ。そこからバスに乗り降りた。バス代は乗客の人にカードで払ってもらった。ありがたい。今度は歩きで現場をめざした。現場まで歩く人はそんなに多くはない。現場から帰る人と行く人はおなじぐらいの人だった。両サイドのお店はガランとしている。教会と思われる入り口にはテーブルの上に紙コップをな並べて給水のボランテァ活動しているところを二か所みた。
黒煙をめざして歩く。現場についたロープが張られていてそれ以上進むことが出来ないようになっている。パトカー、救急車、消防車など走りまわっている。肩に載せて映像を撮っているTV報道陣。マイカーから降りて逃げたと思われる車の上や道路には白いプアスチックを削ったようなほこりが10センチぐらい積もっている。夕日に照らされたビルとその陰のあいだに真っ黒に煙をあげているのが見える。
消防車がそばに止まった、ガスボンベを背負った消防士は現場に向かうのだろう地下鉄の出入口から入って行く。手話を使っている聴覚障害者の人とは「日本から来た」と少しだけ話した。30分近くいただろうか。どうして起きたのかわからないままホテルに戻った。「エー120$=約1万5千円」もするの!。あーしかたないか。ここは韓国系のホテルのようだ。
しょうがない料金は「カード」で支払う。部屋に電話はあるが日本にはかけられない。外に出てガマンしていたビールを飲みながら晩飯とする。朝早くから長―い1日だった。疲れたなー。ホテルの窓からも黒煙が見えている。(この時煙はすぐにおさまり、飛行機もあしたは飛ぶだろうと考えていたが飛行場は16日再開・ビル爆破の煙は1カ月以上立ちのぼっていた)
日本には16日帰国。一年ぶり自宅に帰り自慢したい「旅の話」などしたかった。しかしビル爆破ですべて吹っ飛んでしまい打ちひしがれてなんにも話する気にならなかった。10月15日再びニューヨークに戻りオートバイの旅を続ける。