現地で買った雑誌から
ケネディ国際空港・・飛行機から降ろされてロビーに戻りテレビで事件を知った
すでに年月がたった・・「同時ビル爆破」の事件。本当の犯人は「アメリカ」の自作自演ではないか・・いまでも消えない・・うたがわれても仕方ない・・2001年までの国防費がだんだん減ってきて2002年から増えてくる・・・うーんだまされ続けてきた世界はもうだまされないでしょう・・最近の「シリア」のこと・・なんのことはない。作りすぎた「商品」を消化しなくちゃならねー・でシリアに落として当面の消費を終わらせるだけ・・。背後の脅かしFBI・CIA・チャチャチャ・・その後ろに控える国防軍事のみなさんたちにおびえる「オバマ」さん・・ノーベル賞は返したほうがいいのではないでしょうか。
それにしてもブッシュ元大統領よく平然として生きられますな・・小泉さんも・・「大量兵器、アルカイダとの関係もなかった」
イラクで10万人、アメリカ兵士も4千人なくなった・・責任は誰もとらない。うそのシナリオばかり、もうだまされません
ホワイトハウス、FBI、CIAのみなさん孤立するのはあなたたちだけです。
*写真の日付はヨーロッパの日付のためずれています。
9月10日月曜 くもり 午後夕立の大雨
午前中本屋に行ってオートバイの到着する港を地図で確かめに行く。意外にも泊まっているホテルから近い港であることが分かりホッとする。昼飯は朝鮮漬けでビールを飲んでベッドで昼寝しているとすごい夕立の雨になっていた。20時頃雨も上がったので日本の青年たち4人で晩飯はメキシコ料理へ。丸い「焼きもち」みたいなものに「やさい」「ライス」「大豆」などをくるんで食べる。初めてだったが意外とうまかった。
人が代われば値段も違うビール
ここらあたりは食堂でもビール、アルコールは出していない店がほとんどなので「持ち込んで」「いいかどうか」お店の人に聞いて「OK」をえてからビールを飲んでいる。ビールを買いに行くと「きのう」と「今日」の値段が違う。午前中と午後売店の「人がかわる」と値段が違った。きのうは○○$だった「どうして」きょうは「高いのか」とかけあっても知らん顔。人が代われば値段も変わる「ふーん」おかしなことだなー。
納得できないがしょうがない。食事が安いのは持ち帰り弁当だ。ユースの近くには持ち帰り弁当屋や食堂があっちこっち商売している。ホテルに持って帰る時もあればお店で食べることもある。あした日本に帰るため朝早いので起きられるかどうか心配だ。オレゴン州に戻ると言う日本人女性はあした朝4時に出るのでそれまでテレビ室で寝ないで朝まで過ごすと話していた。
9月11日火曜 はれ はれ 快晴
借りた目ざまし時計が鳴る5時ちょっと前に起きた。国際ケネディ空港9時15分発である。きょうの宿泊地サンフランシスコ経由ハワイ・までの予定である。日本までは一気には長すぎ疲れる・・ハワイで一週間休んで帰国する。6時前地下鉄Aラインに乗った、同じ電車には日本人スチュワデスも乗っていて「ロンドンまで」乗務すると話す。「ここですよ」「あーそうですか」ありがとう。ケネディ空港「下車駅」をスチュウワデスさんに教えてもらい降りる。
駅前から循環バスに「乗る」。だだっ広い駐車場をぐるぐるまわって空港に7時20分。搭乗カウンターでいつものように一番うしろの窓際の座席を確保。上空からアメリカの景色と道路を見るのが楽しみだ。8時40分ごろ機内に乗り込み一番うしろの自分の座席でウトウト、夕べはほとんど寝てないので眠い。9時15分発車時刻はとっくに過ぎた9時40分ごろ機内放送があった。
出発が遅れることはどこの国でも、いつものことなので気にかけないでいた。男の声で一回目の放送があったが何の事だかわからない。あいだをおいて二回目の放送で「ハイジャック」だけ聞きとれた。でもこの飛行機がハイジャックされたことではないし心配することではないじゃないかと思いながらウトウトし始めた。そのうち機内のあっちこっちで携帯電話で外との交信をしているようだ。
飛行場から追い出されてどこに行くのかわからないバスに乗る
満員の乗客が総立ちになった。あっちでかたまりこっちで固まって身振り手振りで周りの人に話している。神妙な顔つきの話しぶりから普通の事でないことをわたしも読みとれる。すぐに機内から全員下ろされた。ロビーに戻ると2カ所のテレビ前は人だかりになっている。テレビを見て驚いた。ビルに飛行機が突っ込んで行く「シーン」を映している。ビルの上層部からは炎が出ている。
「えーこれだった」のか。これは「戦争になる」と一瞬頭をよぎる。今度は隣のビルに飛行機が突っ込んでいく。そのあともビルに突っ込んで行く映像を繰り返して流している。「BBC!BBC!」どこのTV局なのかわからないが男性が叫んでいた。チャンネルを変えろとゆうことなのだろうか。テレビの一番前に座っていた若い女性はビルが崩れる瞬間「オー」と言いながら頭を抱えて泣きだしてうずくまってしまった。
空港はすべて閉鎖されるらしい。チケットはどうなるんだい、なにか証明するものはないのか。もたもたしているとシーシーと追い出されるように空港から出された。外に出た、目の前にはマンハッタンのビル爆破の黒い煙がながながとなびいているのが見える。外に出されてから、どこに行けばいいのか、どのバスに乗ればいいのかまったくわからない。取り残される前にと思って「とにかく乗ろう」余り混んでないバスに飛び乗った。
歩いて行ったマンハッタンビル爆破現場・・
どこに行くのかわからないバスだ。バスは住宅街を走り、幹線道は走らない。1時間ぐらいでバスターミナルに着いた。ここがどのあたりなのか周りにいた人に聞いても地下鉄地図を見せてもまったくわからない。周りの人に○番に乗って行けと言われてうろうろしていると黒人のおばさん2人に連れられた日本人のおばさんが来た。「ジャパン」かと聞いて来た黒人のおばさんはこの人を「助けやって」くれみたいなことを話す。
日本人おばさんは「あんた日本人ね」「あーよかったー」わたしのふるさと佐賀・嬉野の言葉にそっくりだ、すぐ九州の人とわかる。その人は長崎「佐世保」の人で娘さんといっしょにアメリカに来た。しかし娘さんが気分が悪くなって病院に行ったら「精神病と言われ」「入院しろ」と言われた。「ひどい病院だ」「電話もさせてもらえない」などと話す。タクシーやバスに乗ったらとんでもないところに来てしまったとおばさんは話す。
空港に戻れば娘さんの病院もわかると言う。ところで「今日なにが起きているか知っているんですか」と聞いたら「知らない」と言う。きょうはビル爆破で「空港も電車」も「すべて止まっている」だよと話してもちんぷんかんぷんのようだ。仕方ないのでどこの行くのかわからないバスの運転手さんに「ケネディ・エアーポート」と頼んでおばさんと別れる。運転手さんは「うんうん」とうなずいてくれたがどうなるのだろうか心配でもある。
人のこと心配している場合じゃない。自分がどこにいるのかもわかっていないくせに、それどころじゃない。自分がこれからどうすればいいのかもわかっていない。「しょうがない」再び行く先のわからないバスに乗った。途中から乗ってきた中年男性にこのバスはどこに「行くのか」と地下鉄の地図を見せながら聞いた。「地下鉄の終点」に着くことがわかった。あーホッとした。バスは満員になった。
それにしてもバスの中でも乗客の人たちはおとなしい。きょうの事件のことみんな知っているはずなのになー。これだけの大事件なのに国民性の違いなのだろうか。日本だったら知らない同士でも「大変なことだ」「ひどいことになった」と話になる。それでなくてもヒソヒソ話しはする。しかし、ここのアメリカでは「ひそひそ話」もしないのは冷静と言うか無関心なのかどうかわからない、不思議に思う。
約1時間バスの揺られて着いたところは中華街もある街。腹も減っているトイレも行きたい。食堂に行くがビールを置いてないところばかりである。ガマンしてホテルを探そう。アメリカは飛行機も地下鉄も全面ストップしているので早めにホテルをおさえておかないと泊まれないと考えた。4時になっている。地元の人に教えてもらった立派なホテルに行く、ちょっと高そう「聞くだけ聞いてみよう」フロントに行くと「満杯」とことわられる。
料金は聞かなかったが2万円ぐらいはする高級ホテルだと思う。そのホテルに「デスカウントホテルは」500mぐらい先にあると聞く。そこも満室でダメ。あーぁと思っていると「夕方6時に来い」と言う。キャンセル待ちのことだろうか「荷物は預けて」いいとも言う。地下鉄は動き出しているようだ。荷物を預けて地下鉄に乗ってビル爆破現場まで行くことにする。ここは地下鉄7号線の終点であることがわかった。
ホームに上がると爆破されたビルの黒い煙が見える。マンハッタンにはどこで降りればいいのか電車の中の若い人に聞く。電車は途中まで行って折り返しになっているようだ。マンハッタンの中心までは行かないらしい。降りた駅からバスに乗った、降りる時バス代は隣の人がカードで払ってくれた「ありがとうございます」。そこから歩きで現場を目ざした。ぞろぞろと現場に向かって歩いている人のうしろについていく。
途中の店や喫茶店は開店休業、誰もお客はいない、なんとも静かである。2か所あった教会の前には水の入ったコップを長テーブルにならべてある、ボランテァなのだろう。一時間以上歩いて現場に着いた。真っ黒い煙がもくもくと上がっている現場付近は夕日に照らされているビルの中を救急車、パトカー、消防車がランプを付けて動きまわっている。テレビ局が中継している。報道の人たちも動きまわる。
現場は降りて逃げたと思われる自動車の上にもプラスチックを削ったような「白い」ホコリが積っていた。
プラスチックを削ったようなふわふわした白いワタみたいなものがあたり一面道路や置き去りにして逃げたと思われるマイカーの車の上にも20cmぐらい積もっている。ロープを張ってありこれ以上現場には近づけない。シャベルカーが列を作って動き出している。目の前に消防車が停まった。消防の2,3人はガスボンベをしょって地下鉄階段を下りて行った。現場まで地下鉄を歩いて向かうのだろうか。
水道栓から水を出して放水している消防隊の人もいる。現場から帰ってきたのかこれから行くのだろうか消防隊員もいた、疲れた顔なので現場から帰って来たのだろう。ビル爆破はどうして起こったのか原因は何だろうかまだわからない。ビル爆破現場から予約しているホテルに戻る。ここの人は韓国出身らしい。「エー」料金を聞いてビックリ120$=1万4千円だって!でもしょうがない、カードで支払う。
電話は部屋にある。日本に電話してみたいが海外はだめみたいだ。崩壊したビルの黒い煙が立ちのぼっているのが部屋の窓から見える。外食をがまんしていたホテルの部屋でビールを飲みながら一日を振り返る。長―い一日だった。つかれたなー。
9月12日水曜 はれ はれ はれ
きょうはもしかしたら飛行機が飛ぶかもしれないと思い6時頃ホテルを出ようとした。宿の人が「ノーノー」「オールストップ」だと言う。テレビで「言ってるじゃないか」みたいなことを言われる。起きてからづーっとテレビは見ていたが全面ストップとは知らなかった。しょうがない部屋に戻って横になる。ここのホテルは高すぎるのでユースに戻ってみよう。荷物を預けてマンハッタンのユースに向かう。電車はすべての路線で動いていた。
ユースホステルでは泊まり客の受け付けは午後3時に来るようにとのこと。泊まれないことも考えていたがどうにかなるだろうと預けた荷物をとりに戻った。再びユースに戻ったのは12時過ぎだった。電車の窓からビル爆破の白い煙がまだ立ちのぼっている。同室だった日本人iさんとSさんと会った。わたしを見つけた瞬間「あー松尾さん生きてる」とイイノさん。
9時頃のサンフランシスコ行きと聞いていたので「心配していた」冗談かと思っていたらビルに突っ込んだ飛行機の一機は隣りの空港ニューワークから飛び発ったユナイテッドサンフランシスコ行きだったらしい。「えーっほんとに」自分でも初めて知った。
3時にユースの受付で泊まり予約が出来たのでひとまず安心だ。きょうは何もしない日。きのうの事件はなんとなくやる気、行動する気をそがれる感じの事件でもある。
普段はガラガラのユースのテレビ室はじーっとテレビを見いる宿泊客でいっぱいである。事件のこと、これからのことが心配のようだ。日本人の女性も日本に帰れるのは16日とか話していた。またビル爆破はなんのため誰がやったのかまだわかっていないようだ。日本人同士6,7人中庭に集まっては事件のことばかり。爆破されたビルの中にゲリラが入っていたとか、ハイジャックされたのは11機だとか話は飛び交う。
途中で落とされた飛行機はアメリカ空軍が落としたとかの話も交錯していた。このとき事件の概要はわかっていなかった。心配で日本人5,5人集まった時「いつもいじめられていた子供がやむにやまれずいじめていた子をナイフで刺したような事件ではないかなー」とわたしは自分の思いを述べた。
空港が再開されたのは一週間後9月17日日本に戻り・・10月15日ニューヨークに戻る・・ビル爆破の煙がまだ立ち上っていた