『崔祐英(チェ・ウヨン) 拉北者協議会会長のお話(通訳・西岡力氏)』
(日本語で)みなさま、はじめまして。
(以下西岡氏による通訳)皆さんこんにちは。
私は、1987年1月15日韓国の西の海(=黄海の事)のペニョン(白○、○=令+羽)島と言う島の近くで、漁業操業中に拉致されましたトンジン号(東進号=正確には、「東進27号」)と言う漁船の漁労長・崔宗錫(チェ・ジョンソク)の娘、崔祐英です。
お忙しい中、日本人の拉致問題ではなく韓国人の拉致問題の為に、このようにお集まりいただいた皆さんに心からの感謝を捧げたいと思います。
また私どもを招待してくれた家族会の横田滋代表、救う会の佐藤勝巳会長に心からの感謝を捧げたいと思います。
私の父は87年の1月に拉致された時、北朝鮮はその年の2月に返すと通報してきました。
私たち家族は父が帰ってくる日を指折り数えて待っていたのですが、突然韓国政府から南北間の間に問題が起きて、あなたたちのお父さんは帰ってくることが出来なくなったという通報を受けたのです。
その時私は高校一年生、私の弟は小学校五年生でした。
愛するお父さんを一番必要としていたそのような歳に、私たち姉弟は金正日によって愛する父を奪われたのです。
父が拉致された後、精神的なそして物質的な大黒柱であった父がいなくなったために、私たち家族は経済的にまた精神的に大変な苦痛を受けざるを得ませんでした。
私たち姉弟はまだ小さかったので、母が食堂の仕事をすることになりました。
日本とは違い韓国では、拉致被害者家族と言う単語を使うことさえ憚られるような状況が一時期あったのです。
拉致被害者の家族は共産主義者・アカの家族だと思われるために、私の一番親しい親友にも自分の父の事を真実を話すことができないままでした。
そこで友達同士で自分の父親の話が出たときは、私は自分の父が拉致される前に自分にしてくれたことを思い出しながら、想像の世界で自分の父はこんな事をしてくれてるのよと言って過ごしました。
そうして過ごしていた時、偶然1998年新聞を通じてうちの父が、北朝鮮の政治犯収容所に入れられているという衝撃的な事実を知ったのです。
信じる事ができませんでした。
信じられませんでした。
探しに探した、会いたくてたまらないうちの父が、ナチスドイツのアウシュビッツ収容所よりももっと酷いと言われている北朝鮮の政治犯収容所に入れられているなんて事実を、信じる事はできなかったのです。
北朝鮮の状況をその後色々知るようになって、実は父が私たちを愛しているならなんで北から逃げて会いに来てくれなかったのか?と恨んでいたんですが、そんなことが出来るような状況ではなかったんだと言う事が分かって、こちらの方が父を探す努力をしなかったことについて申し訳ないと思うようになりました。
その中で偶然日本人の大学教授に会ったのです。
その大学教授は私たちの苦しい状況を知って、南に来ている脱北者を私たちに一人ずつ会わせてくれました。
そしてそうする中で実は日本にも私たちと同じような苦しみの中にいる被害者家族がいるという事実を知り、そして日本まで来て集会で訴えるという事をするようになったのです。
韓国の中で私たちと同じような状況で苦しんでいる。
家族に会うことが出来ない状況の中で、遠くて近い国といわれていた日本に私たちと同じように拉致で苦しんでいる横田めぐみさんのお父さんお母さん。
そして増元るみ子さんのご家族、それ以外の家族会の方と会うことが出来たのです。
韓国で拉致被害者家族会を作った時の状況、ただお父さんを助けたいと思っていることを訴えるには韓国の状況は容易ではありませんでした。
その時、日本の救う会の皆さん方が一年に一回、日本の国民大集会に私を必ず呼んでくださって、韓国人拉致救出を訴える場所を提供してくださり、また日本の国民の皆さんも多くの励ましを私に下さいました。
99年から2005年、今年まで6年が経ちました。
私はこの間、日本の国民の皆さんから多くの愛を受けました。
日本の学生が千羽鶴を折って私に贈って来てくれたり、頑張れというメッセージが来たり、あるいは日本国民で拉致問題に関心のある方が、なんで韓国人拉致問題はこんなに進展しないのか?と一緒に悩んでくださったりしました。
ここにいらっしゃる日本の家族会の皆さんと、6年間多くの思い出があります。
最近の思い出は横田滋さん、実は私のお父さんの代わりのお父さんなんです。
私はお父さんが拉致されたので、横田滋さんをお父さんと呼んでいるんです。
横田滋さんは私のことを娘と呼んでくださっています。
ちょっと前に日本に来た時にですね。
私が韓国に帰る前、空港まで滋さんが送って来て下さって、一緒にショッピングをしました。
私の滋お父さんが可愛い洋服を選んでくれました。
18年ぶりに私はお父さんから贈り物を貰いました。
私は遠慮を何回もしたんですが、しかしお父さんはめぐみさんが帰ってくるまでは、私はあなたのお父さんであるからといって、可愛い洋服を選んでくれました。
10月5日、めぐみさんの41回目の誕生日でした。
その時実は私たちは韓国政府の統一部の建物の前で、非転向長期囚を北朝鮮に送るなと言うデモをやっていました。
日本のNHKではめぐみさんの誕生日をニュースにして流し救出を訴えているのを見ましたが、その同じ日に韓国政府は拉致被害者が帰って来ていないのに、再び北朝鮮の工作員を一方的に北朝鮮に送り返そうとしている。
それに対する抗議のデモ行進を私たちはしていたのです。
しかし私はこの無能な政府の為に私の父を奪われましたが、しかし私は我が国を愛しています。
ですから私はいつか必ず韓国政府と韓国国民の力で拉致被害者が帰国でき、また生死確認が出来る事を信じて祈っております。
その時まで国籍は違いますけれども、日本人拉致被害者救出と共に韓国人拉致被害者の救出もぜひ一緒に取り組んでいただきたいと思っております。
希望を捨てないで最後まで頑張りたいと思っています。
ありがとうございました。(拍手)
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11月2日PM15:50分 一部修正済み
(日本語で)みなさま、はじめまして。
(以下西岡氏による通訳)皆さんこんにちは。
私は、1987年1月15日韓国の西の海(=黄海の事)のペニョン(白○、○=令+羽)島と言う島の近くで、漁業操業中に拉致されましたトンジン号(東進号=正確には、「東進27号」)と言う漁船の漁労長・崔宗錫(チェ・ジョンソク)の娘、崔祐英です。
お忙しい中、日本人の拉致問題ではなく韓国人の拉致問題の為に、このようにお集まりいただいた皆さんに心からの感謝を捧げたいと思います。
また私どもを招待してくれた家族会の横田滋代表、救う会の佐藤勝巳会長に心からの感謝を捧げたいと思います。
私の父は87年の1月に拉致された時、北朝鮮はその年の2月に返すと通報してきました。
私たち家族は父が帰ってくる日を指折り数えて待っていたのですが、突然韓国政府から南北間の間に問題が起きて、あなたたちのお父さんは帰ってくることが出来なくなったという通報を受けたのです。
その時私は高校一年生、私の弟は小学校五年生でした。
愛するお父さんを一番必要としていたそのような歳に、私たち姉弟は金正日によって愛する父を奪われたのです。
父が拉致された後、精神的なそして物質的な大黒柱であった父がいなくなったために、私たち家族は経済的にまた精神的に大変な苦痛を受けざるを得ませんでした。
私たち姉弟はまだ小さかったので、母が食堂の仕事をすることになりました。
日本とは違い韓国では、拉致被害者家族と言う単語を使うことさえ憚られるような状況が一時期あったのです。
拉致被害者の家族は共産主義者・アカの家族だと思われるために、私の一番親しい親友にも自分の父の事を真実を話すことができないままでした。
そこで友達同士で自分の父親の話が出たときは、私は自分の父が拉致される前に自分にしてくれたことを思い出しながら、想像の世界で自分の父はこんな事をしてくれてるのよと言って過ごしました。
そうして過ごしていた時、偶然1998年新聞を通じてうちの父が、北朝鮮の政治犯収容所に入れられているという衝撃的な事実を知ったのです。
信じる事ができませんでした。
信じられませんでした。
探しに探した、会いたくてたまらないうちの父が、ナチスドイツのアウシュビッツ収容所よりももっと酷いと言われている北朝鮮の政治犯収容所に入れられているなんて事実を、信じる事はできなかったのです。
北朝鮮の状況をその後色々知るようになって、実は父が私たちを愛しているならなんで北から逃げて会いに来てくれなかったのか?と恨んでいたんですが、そんなことが出来るような状況ではなかったんだと言う事が分かって、こちらの方が父を探す努力をしなかったことについて申し訳ないと思うようになりました。
その中で偶然日本人の大学教授に会ったのです。
その大学教授は私たちの苦しい状況を知って、南に来ている脱北者を私たちに一人ずつ会わせてくれました。
そしてそうする中で実は日本にも私たちと同じような苦しみの中にいる被害者家族がいるという事実を知り、そして日本まで来て集会で訴えるという事をするようになったのです。
韓国の中で私たちと同じような状況で苦しんでいる。
家族に会うことが出来ない状況の中で、遠くて近い国といわれていた日本に私たちと同じように拉致で苦しんでいる横田めぐみさんのお父さんお母さん。
そして増元るみ子さんのご家族、それ以外の家族会の方と会うことが出来たのです。
韓国で拉致被害者家族会を作った時の状況、ただお父さんを助けたいと思っていることを訴えるには韓国の状況は容易ではありませんでした。
その時、日本の救う会の皆さん方が一年に一回、日本の国民大集会に私を必ず呼んでくださって、韓国人拉致救出を訴える場所を提供してくださり、また日本の国民の皆さんも多くの励ましを私に下さいました。
99年から2005年、今年まで6年が経ちました。
私はこの間、日本の国民の皆さんから多くの愛を受けました。
日本の学生が千羽鶴を折って私に贈って来てくれたり、頑張れというメッセージが来たり、あるいは日本国民で拉致問題に関心のある方が、なんで韓国人拉致問題はこんなに進展しないのか?と一緒に悩んでくださったりしました。
ここにいらっしゃる日本の家族会の皆さんと、6年間多くの思い出があります。
最近の思い出は横田滋さん、実は私のお父さんの代わりのお父さんなんです。
私はお父さんが拉致されたので、横田滋さんをお父さんと呼んでいるんです。
横田滋さんは私のことを娘と呼んでくださっています。
ちょっと前に日本に来た時にですね。
私が韓国に帰る前、空港まで滋さんが送って来て下さって、一緒にショッピングをしました。
私の滋お父さんが可愛い洋服を選んでくれました。
18年ぶりに私はお父さんから贈り物を貰いました。
私は遠慮を何回もしたんですが、しかしお父さんはめぐみさんが帰ってくるまでは、私はあなたのお父さんであるからといって、可愛い洋服を選んでくれました。
10月5日、めぐみさんの41回目の誕生日でした。
その時実は私たちは韓国政府の統一部の建物の前で、非転向長期囚を北朝鮮に送るなと言うデモをやっていました。
日本のNHKではめぐみさんの誕生日をニュースにして流し救出を訴えているのを見ましたが、その同じ日に韓国政府は拉致被害者が帰って来ていないのに、再び北朝鮮の工作員を一方的に北朝鮮に送り返そうとしている。
それに対する抗議のデモ行進を私たちはしていたのです。
しかし私はこの無能な政府の為に私の父を奪われましたが、しかし私は我が国を愛しています。
ですから私はいつか必ず韓国政府と韓国国民の力で拉致被害者が帰国でき、また生死確認が出来る事を信じて祈っております。
その時まで国籍は違いますけれども、日本人拉致被害者救出と共に韓国人拉致被害者の救出もぜひ一緒に取り組んでいただきたいと思っております。
希望を捨てないで最後まで頑張りたいと思っています。
ありがとうございました。(拍手)
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11月2日PM15:50分 一部修正済み