雅子氏同行せず、ばかり話題になりがちですが、それはさておき。
歴史に照らしてみたとき、実は、これも政治的メッセージなのかと勘ぐりました。
というのは、徳川美術館は、徳川幕府の運営者であった徳川宗家(徳川慶喜家は別個)ではなく、徳川御三家筆頭、尾張徳川家の末裔によって設立されたものです。
徳川家といっても、一緒くたにできません。
美術館創立の時代はどういう思想であったか存じかねますが、尾張徳川家は、同じ徳川でありながら幕府と対立関係にありました。
加えて、藩祖徳川義直以来勤皇の家柄でした。
有名なところでは、8代将軍徳川吉宗(出身は紀州徳川家、在任1716~1745年)の時代に、当時(といってもその中の一時期)の藩主だった徳川宗春(在任1730~1739年)が反抗したことがしばしば時代劇にも描かれております。時代劇では悪辣に描かれたりしていますが、史実では幕府の倹約政策に反抗したのみです。宗春は謹慎隠居を命じられ、以後20年余り蟄居生活ののちに他界しました。
さて、この尾張藩ですが、明治維新にも関与しています。維新150年という時節柄でもあり、特に注目しなければならない。
明治維新の口火クーデターである王政復古の大号令には、尾張藩は薩摩藩率いる謀反軍に主力として加わっていることです。つまり、いち早く新政府側に加わっていたのです。
ちなみにこのクーデターで御所を占拠したのは、薩摩、土佐、安芸、尾張徳川・越前松平の5藩でした。ちなみに長州はまだ法的には朝敵状態で、ここには参加していません。
もっとも、尾張は薩摩や長州よりは穏健で、徳川幕府家を排除することにまでは賛成していなかったようで、徳川幕府家を大名への降格という思想だったようです(土佐藩も同様)。
ただ、尾張藩にも幕府派もいて、この王政復古の時期には尾張藩内で幕府派の者たちが大勢粛清されたようです。
同じ徳川でありながら、朝廷側に立って幕府を向こうに回した。
当時の尾張家は今風に言えば石破や小泉進次郎あたりの立ち位置とも言えましょうか。
だから、徳仁は行ったのではないかと疑っております。今回は自分でも考えすぎかと思いますが。
安倍総理を第2の徳川慶喜にしてはならない、が昨今のモットーです。
話は変わりまして、
宮内庁が眞子殿下の件で言論弾圧〔辻元・蓮舫・民進党式の〕ですかぁ?
眞子殿下の報道にご心痛? ならば、何故お許しになったのか?何故お止めにならなかったのか?
ああ、皇室と日本を自ら解体するにふさわしい案件だからですか。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h30-0525.html
日本がお嫌いな両陛下ですからね。
もう信用しません。
ソ連の対日宣戦布告の8月8日に、「お気持ち表明」するような方は。