日本は民主主義の国だろうか?

日ごろ感じる不条理を書き綴ります。

ウクライナのツイッター

2022-04-26 08:32:05 | 政治

ウクライナのツイッターでプーチン政権を「現代のファシズム」として非難。その中で「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」と指摘した場面で、ヒトラーやイタリアの独裁者ムソリーニと昭和天皇の顔写真を並べていた内容に、日本から非難が殺到し、日本政府からの抗議を受け、ウクライナ政府は陳謝・削除しました。

彼らの歴史認識と日本の歴史認識の違いが明らかになった事例と言えます。第二次大戦を起こした当時の日独伊三国のリーダーは昭和天皇、ヒットラー、ムソリー二でした。戦前の日本は明治憲法下にあり、国家の主権は「天皇」と規定されていました。戦場の日本兵たちが「天皇万歳!」を叫んで戦いにに挑んだのは周知の事実です。彼らの認識は当然と思われます。

戦後、天皇は日本の「象徴」となり、戦争責任は米国の思惑もあり不問とされました。日本の戦争責任を曖昧にし、戦後の歩みに大きな影響を与えました。今の右翼の人たちが元気なのはそのおかげかもしれません。

日本のメディアの報道も、なぜウクライナのツイッターがそういう主張をしたのかの追及はありません。結果、日本の皆さんが「日本の第二次大戦の戦争責任」を考えることもありません。



1 コメント

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Unknown (9vs9qvsq)
2022-04-26 22:12:05
 ちょっと長くなりますが、このエントリーを実証する日本近現代史学者の文章をひとつ。

『岩波新書日本近現代史シリーズ10巻のうち、その6「アジア・太平洋戦争」(この巻の著者は、吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授)によって、こう描き出してきた。

 本書に上げられたその実例は、(1941年)9月6日御前会議に向けて、その前日に関係者とその原案を話し合った会話の内容である。まず、6日の御前会議ではどんなことが決まったのか。
『その天皇は、いつ開戦を決意したのか。すでに述べたように、日本が実質的な開戦決定をしたのは、11月5日の御前会議である。しかし、入江昭『太平洋戦争の起源』のように、9月6日説も存在する。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英欄)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第1項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努」めること(第2項)、そして(中略)、が決められていた』
 さて、この会議の前日に、こういうやりとりがあったと語られていく。

『よく知られているように、昭和天皇は、御前会議の前日、杉山元参謀総長と水野修身軍令部総長を招致して、対米英戦の勝算について厳しく問い質している。
 また、9月6日の御前会議では、明治天皇の御製(和歌)、「四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を朗読して、過早な開戦決意を戒めている。
 ただし、天皇は断固として開戦に反対していたわけではない。海軍の資料によれば、9月5日の両総長による内奏の際、「若し徒に時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり」という永野軍令部総長の説明のすぐ後に、次のようなやりとりがあった(伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(下)』)。
 御上[天皇] よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更致しますか。如何取計ませうか。
 御上 変更に及ばず。
 永野自身の敗戦直後の回想にも、細部は多少異なるものの、「[永野の説明により]御気色和らぎたり。ここに於いて、永野は「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」を奏聞せしが、御上は「それでは原案の順序でよし」とおおせられたり」とある(新名丈夫編『海軍戦争検討会議議事録』)。ここでいう「原案」とは、翌日の御前会議でそのまま決定された「帝国国策遂行要領」の原案のことだが、その第一項は戦争準備の完整を、第二項は外交交渉による問題の解決を規定していた。永野の回想に従えば、その順番を入れ替えて、外交交渉優先の姿勢を明確にするという提案を天皇自身が退けていることになる』
 こうして前記9月6日の「帝国国策遂行要領」は、決定された。つまり、対米交渉よりも戦争準備完整が優先されるようになったのである。続いて10月18日には、それまで対米交渉決裂を避けようと努力してきた近衛内閣が退陣して東条内閣が成立し、11月5日御前会議での開戦決定ということになっていく。この5日御前会議の決定事項とその意味などは、前回までに論じてきた通りである。』
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