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8.15 灯かりのあるしあわせ

2004年08月15日 17時13分55秒 | 想在
 私の、父方の祖母から聞いた話だが。 .................


 戦争中は、防空演習や軍事訓練、避難訓練、空襲警報など、さまざま緊張感のなかにいるのがあたりまえであったという。

 終戦の詔勅で、いちばん、うれしかったのは、「防空壕」 に入らなくて済むこと、そして 「灯火管制」 から解放されるとこと、だったそうだ。

 狭くて、暗い防空壕のなかで、じっと身を固めていることが、とてもおそろしく、せつなく、そして、わびしかったという。

 だれも、あんなところに、好きこのんで入りたくはなかった、と。

 子どもごころに、そのことばがむねに突き刺さったのを、おぼえている。

 また、「灯火管制」 というのは、空襲の目標にされないように、夜、電灯をつける際に、電気に黒い布をかぶせること。

 暗い部屋だったために、生まれた赤ちゃんが女の子とまちがわれ、あとで男の子だと気がついた、という話もあるそうで。

 夜、食事をするときも、むろん灯火管制。 暗い部屋のなかで、黙々と夕食をとることが、暗い気持ちを、さらに陰鬱とさせていたとか。

 ああ。 いまでは、灯かりがあるのがあたりまえになっているが、こうして、あかるい部屋で、なんの心配もなく、ゆっくりと食事できるということは、ありがたいことなのだなあ、と、祖母の話を思い出して、ふいに考えた。

 そんな祖母は、もうここには、いないけれど、戦後、そんな幸福感をおぼえながら、食事をしていたのだろうか。



 二十四時間営業のコンビニエンス・ストアやファミリー・レストランに囲まれた都会に住む私は、ときどき、街の灯かりがひとつもないような田舎へ行って、真っ黒な夜空に、星々がくっきりと輝いているのを見て、感動すらおぼえてしまう。 きっと、それも、いまの平和さをあたりまえにように享受しているがゆえのしあわせ、なのであろうか。



 なお、私の母は、戦中生まれ。 上海の租界地区で生まれたそうだ。

 じぶんが生まれた上海へ行ってみたい、と言っている母は、もう六十歳を越えている。

 いつか、連れて行ってあげられたら、いや、連れて行ってあげなくては、母が元気なうちに ... と思っている。





 関連リンク:
 ●旅・ひと・ことば 「租界の残り香」
 ●「上海の歴史」





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 [追記]:
 ・goo BLOG テーマサロン 「平和のためにできること(8月13日)」 に trackback を送ってみた。

  具体的に平和のためにできることを示唆しているわけではないが、意識の問題として ... ?
  (2004.8.16)



 ・『妖精が見える子供』 - 「命をつなげる・・・」 に trackback. (2004.8.17)

コメント (7)
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