先日書いた記事で、「文章力を上げるには、とにかく書きつづけることだ」 というような、えらそうなことを書いたのだが。
「『BLOG FRIENDS #1』 / 文のちから」
これは、あくまで、方法論 (というほどおおげさなものではないが) として言っているのであって、私が文章力がある、という意味ではなくて ... (念のため)。
じぶんのなかで、ちょっと書き足りなかったので、「継続は力なり」 について、改めて ... 。
文章は、あたまで書くものか、からだで書くものか、と、ふと考える。
あたまで書いているのだと思うのだけど、ひょっとすると、からだで書いている部分もあるのかも、と。
なんというか、踊りや、スポーツといっしょで、からだでおぼえたことを反射的にくり返しているのかな? とか。
独特の言い回しとか、文体とか、リズムとか、そういったものは、あたまで考えて発しているのではなくて、じぶんの内面から、自然に出てくるものなのかな? ... などと考えてしまうのだ。
お上品な人は、お上品な文章になり、ハチャメチャな人は、ハチャメチャな文章になる?
でも、お上品そうに見える人が、ハチャメチャな文章を書くこともあるし、逆に、ハチャメチャそうな人がお上品な文章を書くこともある?
きっと、そういう場合、おもてはおしとやかにしていながら、その内面は、荒狂う海のような人なのだ、とか、見た目はすごいけれど、中身はとっても、紳士・淑女のような人なのだ、とか、想像してみたりする。
自身の内面活動が、からだを通して、無意識に発せられているのかな ... と。
そういえば、「三歳からピアノを習っています」 というようなせりふを聞くことがあるが、それは、あたまでではなく、感覚から体得させるためなのであろうか。
からだで、弾く、という。
ピアノのことについてはよくわからないのだが、すごいな、と思う演奏家のかたは、みんな全身全霊で、鍵盤に向かっているように見える。
かなしい曲でもないのに、なみだがじわりと浮かぶこともある。
それは、小さなころから培われつづけ、細胞レベルにまでしみついているのであろうと思えるような 「感覚」 に、こころ打たれるという感じなのだろうか ... 。
「継続は力なり」 で、私個人の身近な例は、このページの bookmark にも入れている、音楽バーでの、ある企画。
「マラソン DJ」 と銘打たれた企画で、あるミュージシャンのおじさん (失礼!) が、四十二日と195秒、店の営業日に連続して来店し、DJ を行う、というものなのだが ... 。
その様子は、専属カメラマンによって、日々写真に収められ、web 上にアップされた。
DJ のほうは、私は、いつも聴きに行っていたわけではないので、なんとも言えないのだが、その写真のほうは、被写体が、徐々にカメラ慣れしていくさまが手に取るようにわかるのである。 初日と最終日とでは、まったくの別人のよう。
これは、毎日写真を撮られることで、表情の作り方が自然に身についたりしていったせいなのだろうと思っている。
四十歳を越えたおじさん (失礼!) でさえ、そうなのだから、十代のアイドルの女の子や男の子だったりなんかしたら、吸収がいいから、たくさんの人に見られれば見られるほど、そりゃあもう、おもしろいように、どんどんキレイに / かっこよく なっていくはず。
アイドルに夢中になるのも、ひとりのアイドルを追いかけて、ちょっとずつ芸能界慣れしていくさま、とか、ちょっとずつ大人っぽくなっていくさまなどを見つめつづけるのが、たのしみだったりするのかな ... 。
十代のころのような、吸収のよさは、もはや私にはないが、継続して文章を書いて、人の目にさらすことで、少しずつでも、いい文章が書けるようになれたら、うれしいものだ。
なにか、ひとつでも、継続してみたい。 なにかの達成感を得たい。
だから、私は、必死に書きつづけようとしているのかもしれない ... 。
(やっぱり、またえらそうな文になってしまったかも ... )
BGM:
The Nice ‘Hang on to a Dream’
「『BLOG FRIENDS #1』 / 文のちから」
これは、あくまで、方法論 (というほどおおげさなものではないが) として言っているのであって、私が文章力がある、という意味ではなくて ... (念のため)。
じぶんのなかで、ちょっと書き足りなかったので、「継続は力なり」 について、改めて ... 。
文章は、あたまで書くものか、からだで書くものか、と、ふと考える。
あたまで書いているのだと思うのだけど、ひょっとすると、からだで書いている部分もあるのかも、と。
なんというか、踊りや、スポーツといっしょで、からだでおぼえたことを反射的にくり返しているのかな? とか。
独特の言い回しとか、文体とか、リズムとか、そういったものは、あたまで考えて発しているのではなくて、じぶんの内面から、自然に出てくるものなのかな? ... などと考えてしまうのだ。
お上品な人は、お上品な文章になり、ハチャメチャな人は、ハチャメチャな文章になる?
でも、お上品そうに見える人が、ハチャメチャな文章を書くこともあるし、逆に、ハチャメチャそうな人がお上品な文章を書くこともある?
きっと、そういう場合、おもてはおしとやかにしていながら、その内面は、荒狂う海のような人なのだ、とか、見た目はすごいけれど、中身はとっても、紳士・淑女のような人なのだ、とか、想像してみたりする。
自身の内面活動が、からだを通して、無意識に発せられているのかな ... と。
そういえば、「三歳からピアノを習っています」 というようなせりふを聞くことがあるが、それは、あたまでではなく、感覚から体得させるためなのであろうか。
からだで、弾く、という。
ピアノのことについてはよくわからないのだが、すごいな、と思う演奏家のかたは、みんな全身全霊で、鍵盤に向かっているように見える。
かなしい曲でもないのに、なみだがじわりと浮かぶこともある。
それは、小さなころから培われつづけ、細胞レベルにまでしみついているのであろうと思えるような 「感覚」 に、こころ打たれるという感じなのだろうか ... 。
「継続は力なり」 で、私個人の身近な例は、このページの bookmark にも入れている、音楽バーでの、ある企画。
「マラソン DJ」 と銘打たれた企画で、あるミュージシャンのおじさん (失礼!) が、四十二日と195秒、店の営業日に連続して来店し、DJ を行う、というものなのだが ... 。
その様子は、専属カメラマンによって、日々写真に収められ、web 上にアップされた。
DJ のほうは、私は、いつも聴きに行っていたわけではないので、なんとも言えないのだが、その写真のほうは、被写体が、徐々にカメラ慣れしていくさまが手に取るようにわかるのである。 初日と最終日とでは、まったくの別人のよう。
これは、毎日写真を撮られることで、表情の作り方が自然に身についたりしていったせいなのだろうと思っている。
四十歳を越えたおじさん (失礼!) でさえ、そうなのだから、十代のアイドルの女の子や男の子だったりなんかしたら、吸収がいいから、たくさんの人に見られれば見られるほど、そりゃあもう、おもしろいように、どんどんキレイに / かっこよく なっていくはず。
アイドルに夢中になるのも、ひとりのアイドルを追いかけて、ちょっとずつ芸能界慣れしていくさま、とか、ちょっとずつ大人っぽくなっていくさまなどを見つめつづけるのが、たのしみだったりするのかな ... 。
十代のころのような、吸収のよさは、もはや私にはないが、継続して文章を書いて、人の目にさらすことで、少しずつでも、いい文章が書けるようになれたら、うれしいものだ。
なにか、ひとつでも、継続してみたい。 なにかの達成感を得たい。
だから、私は、必死に書きつづけようとしているのかもしれない ... 。
(やっぱり、またえらそうな文になってしまったかも ... )
BGM:
The Nice ‘Hang on to a Dream’